イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

友についての探求の終わりに

 
 今回の探求の結論:
 友の存在にまでいたろうとする果てしのない努力が、友情には求められる。
 
 
 わたしには、友であるあなたの意識そのものに到達することは決してできません(前回の記事参照)。しかし、〈他〉のただ中でぎりぎりの〈同〉を追い求め続ける熱情としての友情は、この不可能性を不可能性としてそこに在らしめつづけつつ、その到達不可能な相手の存在へと赴くことをやめはしないでしょう。
 
 
 究極的に言えば、友に対しては「あなたはこれこれの人だ」と断言することは許されません(罪過としてのマウンティング)。むしろ、友に対しては「あなたはこれこれの人か?」と問い続けることだけが唯一の誠実な接し方であり、〈他なるもの〉への敬意によってしか保たれえないこの疑問形が単なる陳述文に堕する時には、友情はコナトゥスの自己表明へと転落し、愛情は暴力と化すでしょう。
 
 
 私たちはかくして、真の友情は絶対的に希少なものであるという結論にたどり着くことになります。
 
 
 〈他なるもの〉というカテゴリーを友情に持ち込まなかった古代人たちは、自己と友のうちに弱さという契機を見出すことがありませんでした。その一方で、弱さという次元に対しては彼らよりも自覚的になりつつある現代人は、友情や愛情については、そもそもの最初から諦めかけています。哲学そのものの生命とも言える友愛は、哲学徒が、その本質から言って稀にして困難な熱情を持つことを求めていると言わざるをえないようです。
 
 
 
友情 マウンティング 愛情 友情 哲学
 
 
 
 ともあれ、今回の探求では、最後にはまたしても存在という問題圏にたどり着くことになりました。おそらく、ここから先数年の筆者がなすべきは、存在の問いというこの巨大な問題に対して日々粘り続けつつ、自分なりの仕方でこの問いを仕上げてゆくことなのではないかと思われます。
 
 
 哲学者に必要とされるのは、その場の閃きよりもはるかに、倦むことのない執念の方です。誰からも興味を持たれず、自分自身すらも探求の果てしのなさに息切れせざるをえないところで、それにも関わらず問題の側からの要請に応じ続けること。哲学が、世の話題には上ろうはずもないところで、ただひたすらに問題自身の呼びかけに喰らいつき続ける一個の狂気たらざるをえないゆえんです(「さらば哲学界、俺とお前との間にはどうやら、縁がなかったらしい」)。
 
 
 読んでくださって、ありがとうございました!次回からは、また別の主題に取りかかることにしたいと思います。