イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

われわれは隣人のうちで

 
 問い:
 汝は、他者の存在を望むか?
 
 
 人間は日々の生活の流れの中で、たえずこの問いを問われ続けています。
 
 
 もしも、生きることが他者に関わってゆくことそのものであるとすれば(前回の記事参照)、上の問いは「汝は、生きることを望むか?」という問いと同義です。その意味では、絶望するということは、まずもって自らを取り巻く他者たちとの間に結ばれる関係の現在に対して絶望することであると言えるのかもしれません。
 
 
 反出生主義の思想が愛の欠如を出発点としているというのは、おそらくは事実です。ただし、ここでいう愛とは、この世が愛と普通呼んでいるような情緒的関係とは異なるものである(例えば、「愛情が足りない」とは決して言われないであろうような家庭に育った人間であっても、反出生主義的な思想を抱きうる)ことには、注意しておく必要がありそうですが……。
 
 
 人間の根本条件:
 人間は、彼あるいは彼女の隣人たちとの間に結ばれる関係のうちで生きている。
 
 
 私たちは、フィクションの中で語られるようなドラマティックな出来事には、ほとんど出会うことがないかもしれません。しかし、私たちは、日々の生活の中で家族や友人、あるいは職場や社交の場での知人といった、さまざまな関係の中で無数の出来事を経験します。これらの出来事が積み重なることで私たちの人生の実質を形づくられてゆくということには、改めて注意を向けておくだけの価値があるのではないかと思われます。
 
 
 
反出生主義 フィクション 隣人 ゲーテ ウェルテル 人間学
 
 
 
 「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。」どんな人であっても、隣人を全く持たない人はいません。人間の実存とは個の内で完結するようなものでは決してなく、彼あるいは彼女が他者たちとの間に築き上げ、保ち、壊してはまた作り上げてゆく関係のうちに受肉してゆくものであるといえます。
 
 
 どんなに美しい言葉を集め、自分自身の心の中に思想と文学の世界を築き上げるとしても、それだけでは生きることに意味を見出すには十分ではありません。たとえば、「わたしはあなたのことが好きです」と呼びかけるような相手に出会うことがなかったならば、青年が、本当の意味で大人と呼ぶことのできるような存在へと成長してゆくことは難しいのではないでしょうか(信仰者である筆者としては、恋愛よりも聖書の熟読を推奨せざるをえないが、この点、晩年のゲーテがかの『ウェルテル』について語った言葉が思い出される)。
 
 
 生きるとは、隣人との関係を生きることである。人間学としての哲学は、もしも自らの探求を十全なものにしようと望むならば、まずもって、この当たり前の事実のうちに住まうことを学ぶ必要があると言えるかもしれません。