イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

鏡という幻想

 
 無知の知の必要性:
 他者の存在に近づこうとするならば、出発点として、認識主体であるわたしが他者の意識に到達するのは不可能であることを絶えず思い起こしておく必要がある。
 
 
 もしも、わたしがある人とこれからも関わってゆきたいと思うならば、おそらく、「わたしはあの人のことを、よく分かっている」と考えることほど致命的なことはないでしょう。
 
 
 人間は、自分と同じような相手としてしか他者を思い描くことができません。他者はわたしのあらゆる想像を超えていると頭の中では納得しているとしても、現実の人生においては、その他者を「わたしの知っている原理によって行為しているはずの、わたしと同じ人間」として接するほかありません。
 
 
 〈他〉は〈同〉に還元されることはないけれども、わたしは〈同〉という媒介項を通してしか〈他〉に近づくことができない。他者認識をめぐるこの原理的なアポリアの存在を忘れてしまうようなことがもしもあるとすれば、その時にはわたしは、「知ってはいないのに知っていると思い込む」という、古代の賢人が神託を通して気づかされたあの古い誤謬のうちに落ち込むことを避けえないでしょう。
 
 
 
 無知の知 他者 同 懐疑 自己批判
 
 
 
 論点:
 「あなたは〜すべきだ」という類の発言は、きわめて容易に暴力へと転化しうる。
 
 
 自分のことを理解していない相手から執拗に「あなたは〜すべきだ」と言われることほど苦痛な出来事は、なかなかありません。しかし、そのような時に苦痛を感じている当のわたし自身もまた、隣人に対して同じような過ちを日々犯し続けているのではないだろうか。
 
 
 たとえば、自分が体験したことのあるよい事やものは、自然と他者にも勧めたくなります。
 
 
 「わたしはAではなくBを選んで、非常によい結果を得た。だから、あなたもBを選択すべきだ。」このタイプの忠告が適切なものであるためには、相手を取り巻く状況がかつてのわたし自身の状況と同じものであるだけでなく、相手があなたと同じような人間であるという前提も必要になります。
 
 
 本当は、「あなたはわたしの思い描くような人間か?」という問いは、懐疑と自己批判を通して慎重に吟味されるべき問題ですが、わたし自身がこれまで積み重ねてきた経験が、この問いを問うことを妨げることになります。この論点は他者存在なるものについて考える上で非常に重要なものと思われるので、具体例を通して、これから少し掘り下げてみることにします。