イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「隣人との日々の会話というのは、実に喜ばしいものですな」「ええ、本当に」

 
 論点:
 相手を理解しないままに「あなたは〜すべきだ」というタイプの忠告を行うならば、その忠告は容易に暴力へと転化する恐れがある。
 
 
 相対して「あなたは〜すべきだ」と言うことができるためには、その相手についての正確で深い理解が必要でした(前回までの記事参照)。この理解を欠いたままに相手に対して「〜すべきだ」と迫るならば、場合によっては、その相手を追い詰めつつ傷つけることになるのではないか。
 
 
 おそらく、自分自身が年長者や上の立場の人間である場合には、より多くの注意が必要となるでしょう。
 
 
 二人以上の人間同士の間には、たとえそれがどんな関係であったとしてもなんらかの力関係が介在しています。自分自身が下の立場である場合にはその「圧迫」を感じることは容易ですが、立場が上である場合には、力関係の存在は自分の方からは見えなくなりがちです。
 
 
 「彼とは、あるいは、彼女とは、何でも話せる。」わたしがそう思っていたとしても、本当は、そう感じているのは自分の方だけなのかもしれません。立場が下である相手の側が、好意からではなくて仕方なくわたしの話を聞き続けているだけであるとすれば、わたしは気の向くままに話すことで実は無意識のうちに相手を圧迫し続けているということになってしまいかねません。
 
 
 
エゴイズム 他者 彼 彼女
 
 
 
 論点:
 二人の人間が顔を合わせて話すという関係においては、どちらか一方が話し続け、他方が聞き続けることになってしまいがちである。
 
 
 もちろん、話すよりも聞いている方がかえって気が楽であるとか、聞いて相手を支えることに喜びを感じるということもなくはないので、聞き続けることがただちに暴力を被ることを意味するわけではないのは確かです。
 
 
 しかし、現実においては「AがBの話をただ延々と聞き続け、Bの方は自分の話をすることがほとんど許されない」といった状況になりがちです。この場合、そうなってしまう原因はBの側のエゴイズムと他者への無関心、あるいはAの側の自己主張の不足にありますが、話をまくしたて続けている当のB自身はそのことに全く気づいていないという可能性も十分にありえます。
 
 
 それどころか、場合によっては、Bが自分自身を「相手のことを思いやらずにはいられない、気配りのできる人間」と思いながらAを圧迫し続けるということさえも起こりうるのではないか。この辺り、これから他者問題をさらに掘り下げてゆく足がかりになりそうなので、もう少し考察を続けてみることにします。