イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

まずはフジロックの話を聞かねばならない

 
 論点:
 通常の会話は、対話というよりは相互の独白に終わることが非常に多い。
 
 
 たとえば、次のような男女の会話を考えてみましょう。
 
 
 甲(♀):わたしさ、この間Aだったんだよね
 乙(♂):へえー、俺なんてBだったよ
 
 
 この場合、乙は甲の話を聞いているようでいて、実はロクに聞いていない可能性が高いと言わざるをえないのではないか。たとえ、AとBとが話題としては何らかの文脈で繋がっているとしても、乙は甲のAへの思いを理解しようというよりも、単に甲の発言に関連して自分の話をしたいだけなのではないかと思われるからです。
 
 
 乙がなすべきはむしろ、まずは甲の話を聞くことに徹し、ひたすらにAという話題を掘り下げることなのではないか。いや、実は、大切なのはAを掘り下げることではなく、Aについての談話を通して甲という女性を知ることでなければならないとすら言えるのかもしれません。
 
 
 その点、「俺なんて〜だったよ」型の発言は、甲にとっては限りない幻滅を引き起こすものでしかありません。こいつ、こっちの話を聞く気ねーな。甲は、乙に対してただちに永遠の「女心のわからない男認定」を下し、何事もなかったかのように世間話を続けながらも、乙の存在を密かに脳内消去せずにはいないことでしょう(「お前はすでに死んでいる」)。
 
 
 
ハイデッガー アレーテイア フジロック ブラームス クラシック 他者理解
 
 
 
 「わたしさ、この間Aだったんだよね」。注意すべきは、甲という世界にたった一人しか存在しない、かけがえのない女性が、畏れ多くも乙に対してAという話題を提供してくれたことです(cf.ハイデッガー哲学におけるアレーテイアの概念を想起せよ)。たとえば、Aが「フジロック行ったんだ」であったとしましょう。
 
 
 へえー、どうだった?あるいは、どのバンド目当てで行ったの?話の広げようはいくらでもあります。何よりも、甲は乙に対して、自分がロックファンであるという貴重な情報を明かしてくれたのです。この機会を捉えずして、一体いつ甲という女性の存在について知ることが許されるというのでしょうか。
 
 
 それを事もあろうに、「ブラームスのコンサート行ったよ」で返すとは、お前のクラシック趣味のことなんて誰も聞いてねぇんだよこのブタ野郎としか言いようのない返答ですが、いずれにせよ、この返答によって甲という無限の神秘への扉は永久に閉じられてしまいました。むろん、ここで問題になっているのは女性へのアプローチの是非ではなく、他者理解という哲学問題の方であることは言うまでもありませんが、誰かの話を本当の意味で聞くためには、相手への限りない敬意と感心とが必要であることは確かであるように思われます。