イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

相手には言えないこと

 
 論点:
 対話の相手の話を聞く際には常に、その相手には、自分に対して何か言えないことがあるのではないかという可能性を想定した方が無難であろう。
 
 
 ここで少し、身近な隣人たちのことを具体的に思い描いてみることにしましょう。
 
 
 私たちには、おそらくその隣人のうちのどんな人に対しても、それぞれ口に出して言えないことを持っています。相手に対する遠慮から、言っても困らせてしまうだけであろうという思いやりから、あるいは、どうせ言っても理解してくれないであろうという諦めと絶望から、私たちは他者に対して沈黙します。
 
 
 そうであるならば、逆に私たちが話しているその当の相手にもまた、私たちに対して言えないことがあるはずです。そして、その中には、機会さえあれば言うこともできなくはないし、言えるならばその方が望ましいことも含まれているのかもしれません。
 
 
 人間は、「この人だったらわかってくれるかもしれない」と思える相手にしか本音を語りません。そして、こうして判定は無意識のうちになされることも決して少なくはないので、わたしは相手に対して、ほとんど自分でも気づかないままに口をつぐんでしまうことでしょう。
 
 
 ひょっとすると、あなたもわたしと同じように、わたしに対して何か言えないことがあるのではないか。そのように考え始める時、わたしはおそらく、他者の理解ということに関して以前よりも少しだけ前進しはじめています。
 
 
 
対話 会話 ストレス 暴力 他者
 
 
 
 論点:
 世の中には、本音で語ることに他の人よりもずっと大きな困難を感じてしまう、いわゆる「内気な人たち」が存在する。
 
 
 内気と表現できるうちはまだ大丈夫な方で、こうした人々のうちには、その「内気さ」がほとんど病的と形容せざるをえないような程度にまで達している人も少なからずいます。
 
 
 この人たちにとっては、日常生活において、ほとんどすべての会話がストレスの種となっています。自分に対して理解を示してくれる少数の人々との間ではまだ問題が少ないとはいえ、「相手に対して何かを言えない」という現象に対する理解を欠いている人々に囲まれている場合には、ストレスが原因でさまざまな心身の病気に悩まされてしまうことも稀ではありません。
 
 
 「私たちは、相手に何かを言わせなくさせてしまうことによって、無意識のうちに誰かに負担をかけ続けているのではないか。」私たちの探求は、他者に対する(無)理解と暴力とが不可避的に結びついてしまう地点にたどり着きつつあるようです。