イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

礼を失することの危険

 
 問題提起:
 日常で行われる何気ない会話の中にも、暴力は潜んでいるのではあるまいか。
 
 すでに挙げた例でいえば(前回の記事参照)、Xは、自分の言動がYの側に負担をかけているということに気づいていません。Xは、他でもない自分自身ががストレスを与え続けている当の相手を、またとない親友と思っていたのでした。
 
 
 「そんなことだったら、なんで言ってくれなかったんだ。」もしも事の内実を知ってしまったとしたら、Xは恐らくはそのように言うことでしょう。確かに、正直に自分の感情を伝えなかったYの方にも、責任はなくはないのかもしれません。
 
 
 しかし、人間関係には「相手には言えない」という構造がいったん出来上がってしまうともうどうにもならないところがあるので、強いて言えば、やはりXの方がもう少しYに対して遠慮しておくべきだったということになるのでしょう。
 
 
 あらゆる人間関係には、いつでも必ず何らかの力関係が働いています。その中には、何かを言わせる力もあれば、何かを言わせなくする力も存在していますが、いずれにせよ、隣人との関係においては、これらの力の存在に対して、どれほど注意を払い過ぎても払いすぎるということはないのではないだろうか。
 
 
 
X Y 他者 隣人
 
 
 
 論点:
 私たちは、自分が話している相手に対して無意識のうちにストレスを与えている可能性には常に自覚的になっておく必要がありそうである。
 
 
 少なくとも、上の可能性を常に念頭に置いておくことによって、相手に負担をかけてしまう危険を幾分かは減らせるのではないかと思われます。
 
 
 筆者自身の経験ということでいえば、人間関係において、上のような懸念を抱いている時に失敗することはこれまでほとんどなかったのに対して、失敗した時には、何らかの意味で相手に対する遠慮がなくなってしまっていたことが多かったのではないかという気がしています。
 
 
 そうは言っても、たとえ自分では気をつけているつもりだったとしても、それでもやはり気がつかないうちに隣人にストレスの種をまき散らしていたというケースも少なからずありそうなので、警戒さえしていれば安心というわけでもないかもしれませんが……。この辺り、心配しすぎて自壊するのも行き過ぎであるとはいえ、どこかで何らかの危惧は抱きつづけておいた方がよさそうです(この点については、まさしく「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈るに如くはない)。