イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

共有と専有。あるいは、SNSは恋愛の敵であるか?

 
 推しの生成ロジック:
 ①ファンたちは各人が推しの専有を放棄することによって、欲望の実現をある部分において断念する。
 ②しかし、そのことによって推しはファンたちの間で共有される「ネットワーク存在」と化し、ファンたちの間で縦横無尽に流通する。
 
 
 ファンたちは、推しとの間に疑似恋愛的な状況を仮想し、推しのことを「うちのダンナ」と呼ぶことさえありますが(女性ファンの場合)、推しと恋愛のパートナーのそれぞれに向けられる感情には無視することのできない違いがあることは、観察者から見ても当事者からしても明らかです。推しに向ける感情は、自分自身の内側に秘めておくといった類のものではなく、むしろ公開し発信しネタ化してゆくことによって、他のファンたちとの間で積極的に共有されてゆくことをその特徴としています。
 
 
 一方、恋の感情はその本質から言って、気軽にSNSで発信できるようなものではありません。わたしが相手を想っていることは、当人にも周りの人々にも知られてはならず、たとえ打ち明けるとしても、本当の親友にだけ辛うじて相談できるにすぎない。恋には、偲ぶ恋と偲ばない恋とが存在する、というのではなく、むしろ恋とは必然的に偲ぶ恋であらざるをえないというのが、恋愛なるものの運命なのではないかと思われます。
 
 
 
 推し ネットワーク存在 恋愛 SNS サルトル・ボーヴォワール 自由恋愛 食物連鎖
 
 
 
 恋と秘密とはかくも密接に結びついているものなので、おそらくは、「SNSは恋愛の敵である」という言辞さえも全く根拠がないとは言い切れないのではあるまいか。SNSを通して恋が生まれてゆく場合でも、その恋はいわばSNSの隙間をくぐり抜けるようにして、SNSが実現し、保持している公開性の支配の裏側で進行してゆくのではないかと考えられます。
 
 
 現実の世界においては、親密な人間関係の可能性は相互に排他的です。性関係とはある種の相互所有に他ならず、所有に縛られることのない、サルトルボーヴォワール的な自由恋愛の観念は、おそらくは頭の中でだけ想像された幻想の枠を出ることはないでしょう。
 
 
 ヴァーチャルな共有としての〈推し-ファン〉関係と、リアルな専有としての〈わたし-あなた〉関係とでは、その関係から学ぶことのできる内容も異なります。前者においては、異性よりもむしろ同性の他者たちとの友情について学ぶことが多く、異性との本格的な交渉については、やはり後者の方を待たなければならないことは言うまでもありません。
 
 
 脱線が長くなってしまいましたが、ようやく元々の主題に戻ってくる準備が整ったようです。他者問題への糸口として、A君と船越さんをめぐる恋愛模様(但し、その内実は、食物連鎖の関係に極めて近い)の方に立ち戻ることにしましょう。