イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

文学の役割

 
 論点:
 他者の未知性は、認識と実践の主体であるわたしが絶えず思い起こそうと努め続けなければ、避けがたく忘却されてゆく。
 
 
 たとえば、わたしがある人物Mについて、「この人はNである」という判断を下すとします。
 
 
 この判断それ自体は、Mという人物の特徴を的確に捉えたものであるかもしれません。そして、このNという特徴(ex.「純粋」「身勝手」「物静か」等々)が、当のM氏の人格性を、その深みにおいて言い当てたものであることもありうるでしょう。
 
 
 しかし、わたしはあくまでも、「わたしがこれまでに見た限りでのM氏」を理解したにすぎません。わたしがM氏との関係性をこの後に深めてゆくならば、Nのみならず、OやPといった特徴を新たに発見することになるかもしれません。
 
 
 のみならず、特徴Nは、はたしてM氏の人格をどれほどの深みにおいて捉えたものなのでしょうか。ひょっとしたら、M氏がNであるのはわたしのように、それほど親しいわけではない友人や知人に対してだけであって、親友や妻に対してはQである(かつ、QはNからは一見かけ離れているように見える特徴である)ということも十分ありうるのではないか。
 
 
 このように、「この人はNである」ことが分かったというだけでは、まだM氏のことを知るための入り口に立ったに過ぎないことは間違いなさそうです。本当の意味でM氏を知ってゆくためには、おそらく、どれだけM氏と関わり続けても十分というわけではないでしょう。
 
 
 
文学 人間観察 プルースト ドストエフスキー
 
 
 
 文学が私たちにもたらしてくれる最も大きな恩恵の一つは、文学作品が、私たち自身の隣人たちを見つめるためのまなざしを養ってくれることにあります。
 
 
 文学者たちは多くの場合、人間観察のプロフェッショナルです。また、この人たちは、私たちが日常生活の中で隣人たちを眺めている時よりもはるかに深いところで人間を見つめようと命を削っているので、その作品に触れることによって、読者である私たち自身のまなざしも感化されてゆくことになります。
 
 
 プルーストを、あるいはドストエフスキーを読むことがなければ、私たちが人間について知りうることはなんと狭められてしまうことでしょうか。紫式部光源氏をめぐる、あの運命的な長編作品をもし書かなかったとしたら、私たちは、女性が男性から愛されるということについての、あれほど繊細で、不実と苦味に満ちた「美しさ」を知ることもなかったのではないかと思われます。
 
 
 文学を読むことによって、私たちは、人間を知るという過程が終わりのない、絶えることなき努力を要求する「生涯の学び」であることを教えられることになります。この意味からすると、学校教育で文学を教えることは、不必要であるどころか、何があっても欠かすことのできない必須事項であると言えるのかもしれません。