イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

対話が密かに打ち切られるとき

 
 論点の再提示:
 対話の相手から耳を傾けてもらえない時、ひとは静かにその相手から離れてゆく。
 
 
 相手に話を聞いてもらえないと感じた時、それでも対話を続けてゆこうと努め続けるのは、多大な労力を要します。
 
 
 その上、仮に対話を続けようと欲したとしても、相手が対話不可能であるためにどうにも話の進めようがないというケースも存在することは、否定しがたいように思われます。ここでは、哲学的思索が突き当たらざるをえない、決定的に重要な問いが立てられるべきであるといえるのではないか。
 
 
 問い:
 人間同士の対話には、限界があるのか?
 
 
 哲学の営みは、対話によって真理に到達することができるはずだという前提に立っています。また、たとえば議会制民主主義という制度の根底にあるのも、互いの言い分に耳を傾け合う対話的討論によって、物事をよい方向に進めてゆけるはずだという自由主義的価値観にほかなりません。
 
 
 しかし、私たちが現実の人生においては、「話してみてよかった」だけでなく「駄目だ、もう話していても仕方ない」にぶつかることも数多くあるのもまた事実です。「人間には、他の人間の話に耳を傾ける気がない。」この事実の打ち消しがたい重みに向き合いつづけることなしに、哲学や民主主義の価値を擁護するのは不可能であることは間違いなさそうです。
 
 
 
 対話 哲学 議会制民主主義 自由主義 民主主義
 
 
 
 ここでいったん、わたしではなく相手の側に立って考えてみるならば、わたしが相手を「見捨てる」のではなく、わたしが相手によって「見捨てられている」というケースも、当然のことながら少なくないのではあるまいか。
 
 
 話が通じないと思った時、ひとは普通「あなたとは話が通じませんね」と告げることはせずに、ただ静かに相手から離れてゆきます。つまり、仮に相手を見捨てるとしても、それは、見捨てたことすら相手に気づかれないという仕方で行われるわけです。
 
 
 したがって、対話の打ち切りという出来事は、普通そう思われているよりもはるかに多くの頻度で起こっているといえるのではないか。私たちは日々、互いに見捨て、見捨てられて、話を打ち切っては打ち切られつづけているのではないだろうか。
 
 
 相手を心から信頼しあった上での対話というのは本当に稀なものであり、あとは同質性に基づく内輪のコミュニケーション(そこでは、対話的思考は停止され、文脈依存性の高いスラングが多用される)でないとすれば、あとは広い意味での政治と商談が残るくらいといったくらいかもしれません。あらゆる対話の哲学はまずもって、「人間は対話を望まない」という事実から出発する必要があるのではないかと思われます。