イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

愛と民主主義、その危機について

 
 論点:
 片方が気づかないうちに対話を打ち切られているというケースは、多数存在する。
 
 
 互いの価値観や考え方が大きく異なる際には、対話することは多大な労力を要します。
 
 
 その上、この過程は双方にとって、心地よいとは決して言えないような性質のものです。「あなたの考え方は間違っていると思う」で済めばまだよい方ですが、時には「あなたの考えは、『倫理的に』間違っていると思う」まで踏み込まなければならないことも、決して少なくはないと思われるからです。
 
 
 したがって、対話することは互いに対する信頼と、対話を続けてゆこうとする意志とを要求します。ところがこの、後に挙げた意志なるものは、それぞれの側がそれこそ「意志をもって意志しつづける」ことをしなければ保たれることはありません。
 
 
 どちらかの側が「もう、対話は十分だ」と諦めて降りてしまえば、対話は終わりです。その場合、もう片方の側が対話を続けようとどれだけ努力を重ねるとしても、降りようとしている側の意志が動かされることがなければ、どうにもなりません。
 
 
 愛の終わりとはこのような、愛することへの意志そのものの放棄を意味します。「あなたとの間にかつては今とは違うものがあったかもしれないけれど、今はないし、もう今となっては、これまでの関係を続ける気もない。」こうして、かつてはあれほど多くのものが流れていたはずの恋人や友人たちは、もはや言葉を交わすこともなくなって、決定的な仕方で離れてゆくことになります。
 
 
 
 対話 意志 愛 民主主義 市民 共生 形而上学
 
 
 
 民主主義は本来、それぞれの人間(「市民 citoyen」)が倦むことなく対話を続けながら、原理的にはすべての人間のものとなるはずの「善き共生」の形を追い求めてゆくことを志向しています。
 
 
 しかし、いうまでもなくこの過程は、絶えることのない倦怠と労苦を引き起こさずにはいないものです。その途上においては、対話の以前からもともと存在しており、多かれ少なかれ抑圧的な仕方で働かずにはいない同質性なるものに頼ったり、悪い場合には、亀裂と分断から生まれる憎しみを利用するといった手段に訴えたくなる誘惑にかられることも多々あるでしょう。
 
 
 一つだけ確かなのは、「民主主義はオワコン」と諦めてしまうことの方が、「民主主義はやはり捨てられない」と踏みとどまり続けるよりもはるかに容易いということです。愛においてもまた、「この人とはそれでも、分かり合えるはずだ」と信じ続けるよりも、「この人とはもう、どうしようもない」と関係を放棄することの方が、はるかに容易い。この点から言うと、存在の理法を究めようと努める形而上学者もまた、「善は意志され続けなければならない」という格率を心に留めておくべきなのかもしれません。