論点:
哲学徒は、対話というコミュニケーションの方式を諦めるわけにはゆかないのではあるまいか。
現実には、私たちの人生においては、対話の限界に突き当たることばかりかもしれません。対話することに対する、また、相手の言うことに耳を傾けることに対する人間の嫌悪と拒否には、極めて根深いものがあることは間違いなさそうです。
しかし、哲学とは自分にとって心地よいものではなく、真なるものを追い求める営みである以上、対話の可能性そのものを諦めてしまうことは、哲学徒には極力避けるべきことなのではあるまいか。
自分の考えていることに対する反論というのは大抵、思ってもみなかったところからやって来ます。たとえ、そのことによって自分の主張が覆されることはないとしても、そうした反論が自分の考えを多角的にし、深め、ある点において変更を強いる可能性は大いにありそうです。
頑なな精神の持ち主であれば、自分の考えが正しいかどうかという点にのみ固執し、他者の反論は、その正しさに対する挑戦であるというくらいにしか考えないかもしれません。
しかし、対話とは互いの正しさを争うための、勝ち負けの明確なゲームというよりもむしろ、互いのやり取りを通して真理を発見してゆく相互協力的な営みです。その過程においては、双方が自分の側の正しさではなく、ある意味では互いを超えたところに存在する〈真なるもの〉に付き従ってゆく必要があるのではないか。
人間の知恵は、その人が何を知っているかによってではなく、その人がどれだけ他者の言葉に耳を傾けることができるかによっても測られるべきかもしれません。
発話しあうことよりも先に、聴きあうことが対話を支えます。相手の発言の意図や文脈をおもんばかるより前に性急に発言してしまうならば、ダイアローグはモノローグに変質し、当然の結果として、そこから何かが生まれることもなくなってしまうでしょう。
A君は、船越さんのことが好きでした。しかし、彼は船越さんがどのような人間であるのかを、本当に理解しようとしていたのでしょうか。A君の側はそう思っていたとしても、船越さんからすれば単に自分のことを「萌え消費」しているだけであるように感じられていたとすれば、どうでしょうか。
A君本人としては船越さんと対話しているつもりだったとしても、船越さんの側としては単に、自分のことをA君が誤解したいように誤解してゆくのに任せているといった心境だったかもしれません。この路線に沿って、彼ら二人のケースについてもう少し考察を深めてみることにします。