イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真理とパレーシア

 
 これから、哲学の道に進むべき(?)根拠について考えるにあたって、まずは次のことを確認しておきたいのである。
 
 
 論点:
 哲学において、率直に語ることは真理に至るための必須条件である。
 
 
 たとえば、哲学に興味ない人に対して、哲学自体を正当化しなきゃなんないとする。その場合、色々工夫して擁護してかなきゃいけないわけですよ。教養の必要性と有用性とか、広い視野と論理的思考力とか、よくわかんないけど、そういうあれだ。
 
 
 「……はぁ。」
 
 
 でもさ、ぶっちゃけ哲学なんて、社会でそのまま使えるわけねえ。むしろ、学べば学ぶほど生きにくくなってくし、下手したら生きてる意味すらだんだんよく分かんなくなってくみたいなことになりかねない。哲学を勉強するっていっても、単に中二病をこじらせまくってるだけなんじゃないかって気もしなくもない。
 
 
 「……。」
 
 
 でもさ、その辺りのことも含めてざっくばらんに話せる人としか、哲学の意味とか価値って語れないんじゃないかと思うのである。
 
 
 「哲学ってこんな役に立つ」っていうのは、いわば外部向けの公式見解である。でもさ、内側ではせめて、「いやー生きてくのってしんどいよねうじうじ」でいいじゃん。僕は半分くらいは本気で、うじうじするのって、人間にとって非常に大事なんではないかと思うのである。その意味では、哲学という営みを「方法論的に高度なうじうじの技法」と定義したとしても、それほど実情から外れてはいないんじゃないかと思わなくもない……。
 
 
 
 哲学 中二病
 
 
 
 というわけで、今回の話題に関しては、できる限りぎりぎりのところで本音をぶちまけるというスタンスでゆくことにしたい。
 
 
 もちろん、本音で行くっていっても、文字通りガチの本音ってことになれば、そのままブログには書けないであろう。そういう意味では、むき出しの本音とお上品な哲学用語の中間くらいを、できれば前者にできるだけ近いあたりでふらふらさまようみたいなことになりそうだけど、文章ではそれが限界なんではないかとも思われるのだ(同志よ、掛け値なしの実情については、顔を合わせた時にでも思う存分話し合おうではないか)。
 
 
 というわけで、最初に方向性を確定させておくとするならばだ、色々考えたけど、やはり哲学の道に進みたいと言ってる若者に対しては、やっちまえ、人生捨てて哲学に突っ走っちまえと答えるしかないと思うのである。
 
 
 僕自身も今年で34歳になるんだが、このまま哲学で行くしかねえっていうのと、このまま哲学なのかうじうじっていうのの間で揺れ動いているのである。そういう意味でも、最後には「諸君、われわれには哲学しかない!」みたいな結論にたどり着きたいところではあるが、これから哲学を擁護してくかと思うと、なんかもう、早くもうじうじしたい気持ちが湧き上がってくるのを止められんなこれは……。