対話は重要だ。しかし、一口に対話と言っても、僕には大きく言って二つのタイプの対話があるように思われるのである。
論点:
対話の種類には、力能の対話と存在の対話の二つがある。
対話力がある種のスキルだっていうのは、これはもう間違いのないことだ。ビジネスをする上でも対話は必要だろうし、人間関係を円滑にしてゆく上でもコミュ力は欠かせない。
「われわれは、〜することができる。」できるというのはいつも、非常に心地のよいことだ。仕事してる最中に、俺ってなんて仕事できるんだ、できすぎて困っちゃうぜスチャッ(注:メガネをかけ直す音)とか思えたら気持ちいいだろうね。うだつの上がらない身からは縁の遠い話ではあるが、とにかく、こういう原理に基づく意識の高い対話を、力能の対話と呼ぶことにしよう。
しかし、対話には力能の対話だけではなく、もう一つのタイプがある。それが、存在の対話だ。
こっちの対話は要するに、お互いにうじうじし合うというだけのものである。「いやー、僕たちって何にもできないよねー、うじうじ。」でもさ、色々器用にやっていけないなら、究極、最後にはもうこうやってぼやき合うほかないとも言えるんではないか。
うじうじ言ってても仕方ないのかもしれないけど、でも誰かと一緒にうじうじしてるって、なんかほっとする。突き詰めて言えば、相手のうじうじに付き合うということは、相手の存在をそのまま認める、受け入れるということなのだ。そして僕には、哲学の対話は本質的にこっちの方、つまりは存在の対話の方に向かうべきなのではないかと思われるのである。
ビジネスやハウツー本なんかは、基本的には力能志向なのである。つまりは、どうやったら有能な人間になれるかである。んで、こっちの側から学べることは非常に大きいというのも確かである。ドラッカーとかスティーブン・R・コヴィーみたいな大家たちは、古典もしっかり読みまくってた上で書いてるしなあ……。
しかし、哲学というのはそれよりも、もっとずっとうじうじしたものであるべきなのではなかろうか。有能になるとかムリよ。いや、わかんない、有能になるのも大事ではあるんだけどさ、しかし、人間にはそれよりも大切なこともあるんではないのか。
自分ができるようになることは気持ちいいけど、その一方で、できるようになったらできない人の気持ちが、だんだんわからなくなってゆく。
いや、僕だって今よりもアゲアゲだったら、『できる人には哲学がある』みたいなタイトルの本でも書いて、調子こいてたかもしれん。実際にはここでこうやって、「できなくても生きてちゃ駄目かなあうじうじ」みたいなうじうじブログを書いてるわけだが、しかしここには、哲学の根源の問いは力能の問いにあるのか、それとも存在の問いにあるのかという大問題が関わってきている。僕は存在の側、つまりはうじうじの側で突き進んでゆくつもりだが、この点についてはもう少し掘り下げてみなければならぬ。