イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

力能と無能のあいだ

 
 しかし、存在の対話と力能の対話というこの論点は、おそらく一筋縄ではゆかないものである。
 
 
 論点:
 哲学は、本源的には存在の次元に関わるとはいえ、力能の次元に関わらないというわけでは決してない。
 
 
 たとえば、デカルトには『精神指導の規則』というテクストがある。これは要するに、新しい真理を発見するためにはどういう原則に従って思考すればいいかを論じたもので、ここでは哲学は、思考の力能を強化してゆくことに多大な関心を寄せているわけである。
 
 
 そもそも哲学って、ガチで突きつめようと思ったら、それこそ万巻の書物にぶち当たるくらいの気概がないとダメ、っていうようなところがある。すべてを学び尽くして何でも知ってる哲学者というイメージは、アリストテレスからカントに至るまで、我ら哲学徒の間に流布しているテンプレとも言えるものであることは間違いない。
 
 
 しかし、こういう「ザ・理性の力能の極点としての哲学」と同じくらいに、「ザ・無能の極みとしての哲学」というイメージもまた根強い。僕たちって何なの、これだけ勉強しまくってるのに何にもできないってどういうことみたいに虚脱感に襲われているのは、僕のみならず、無数の先人たちについても同じなのであった。
 
 
 哲学とはその本質からいって、力能と無能の間で揺れまくり、ブレまくらずにはいないものなのではあるまいか。めっちゃ意識高いはずが何ともいえず淋しいことになるという構図は哲学という営みが必然的にたどり着いてしまう運命なのではないかと、ここでは考えてみたいのである……。
 
 
 
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 いやこれ、非常に重大な問題のはずですよ。しかもこういうタイプの問いは近代以降、少なくとも最近になるまではなかなか正面からは問えなかったもののはずなのである。
 
 
 近代って、「理性の力能=ものを考える力」がとてつもないものを生み出しうるっていうことが、とにかく至る領域で示されまくった時代である。その一番わかりやすい例が、言うまでもなく自然科学だ。
 
 
 そのことにも重なり合うようにして、哲学も認識論っていう部門を前面に押し出しつつ、いわば理性を推しまくってきたわけである。まさしく哲学にとっても推しは尊かったわけで、カントの批判なんかはこういう動向の頂点とも言えるし、フッサール現象学はさしずめ、正面からの理性擁護の最後の企てとも言いうるかもしれぬ。
 
 
 しかし、時代が進むにつれて哲学は少しずつ元気を失ってゆき、われわれの時代を迎えるに至って、いまや「俺たちって何やってたんだっけ」的な本質忘却に襲われているわけである。哲学にとってはなんとも残念な雰囲気が漂っていると言わざるをえない時代ではあるが、僕はむしろこういう状況こそ、哲学がその本来の面目をこっそり達成するチャンスなのではないかとも思うので、その辺りのことを引き続き考えつづけてみることにしたい。