イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現代と反出生主義雰囲気の問題

 
 結局、近代という時代が突き詰めたのは、次のようなアリストテレス的人間観だったのではなかろうか。
 
 
 アリストテレス的人間観:
 人間とは、理性的動物である。
 
 
 理性を持っている、すなわち、ものを考える力がある。なんだかんだ言っても、これが人間をほかの動物たちから区別する最も大きな特徴であることは間違いないであろう。
 
 
 すでに述べたように、近代の哲学は、そして近代の人間は、理性の力能によっておのれの存在を正当化しようとしていた。ちなみに、近代という言葉を用いて過去を振り返るのは、確かに一面では「もうやり尽くされてるんじゃね?」という観も否めないのではあるが、しかし僕としてはやはり、事柄の必然性からしてこのままこの伝統ある語を使い続けることとしたい。
 
 
 たぶん哲学の歴史って、そんなに簡単に先に進むもんではない。というか、新語なり、標語やキャッチフレーズなりが現れて多少なりともイケイケな雰囲気を出そうとしてる時には、まず八割方は見かけ倒しなんではないかと思っていて問題なさそうである。
 
 
 僕がここで論じていることも全く新しいものというよりは、フッサールからハイデッガーに至るあたりの20世紀哲学が問題としていた論点を、僕なりに重要なんではないかと思うテーマを絡めながらさらに深めてみたいという感じなのである。力能と存在という切り口については、自分としては「いやもうこれ、哲学は究極これしかないっしょ」というくらいの気持ちではいるのだが、他に発表する場もないゆえ、ただこの荒野で地味に書き続ける予定なのである。
 
 
 
アリストテレス 近代 理性的動物 フッサール ハイデッガー 力能 反出生主義
 
 
 
 ともあれ、本題に戻る。僕が、近代と区別して今の時代を現代と呼んでみたいのは、現代の人間にとっては、理性の力能によって自分を正当化してゆくという道が、なにか決定的な仕方でふさがれてしまってからすでに久しいのではないかと思うからだ。
 
 
 いやもちろん、科学はこれからもどんどん発展してゆくだろう。時代の見通しは世界中でそんなに、というか決して明るくはなさそうであるが、しかしその一方で、テクノロジーの発展も社会変革も、おそらくとどまることはないであろうね。
 
 
 しかし、人類の人類自身に対する自信は、なんかもうだいぶ昔に一旦おじゃんになっちゃったんではないかというのは否定しがたいのではなかろうか。
 
 
 いや、わかんない、中には「人類はまだまだいける」みたいに主張したいという哲学者もいるのかもしれないが、同時代的にはやはり、人類は人類自身に対する憂鬱に悩まされ続けてるんではないかという気がしてならないのである(現代を取り巻く、反出生主義的雰囲気の問題)。んで、僕はこの事態に「力能から存在へ」という自分自身の哲学のテーマを結びつけて論じたいのだが、すでに紙幅も尽きてしまったゆえ、その辺りはとりあえず次回以降の記事に回すこととしたい。