イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学と黙示、あるいはソクラテス的無能について

 
 論点:
 現代の人間は、「あらゆる力能から切り離された、存在のみの人間」という形象に直面しているのではないだろうか。
 
 
 ここには、根源的な問いがある。すでに書いたように、僕はこの問いの背景として近代の、すなわち、理性の力能の時代の終わりという歴史的状況を重ね合わせたいのでもあるのだが、より根源的には、この問いはもっと普遍的な広がりを持っているはずである。
 
 
 この辺りの事情について少しだけ補足しておくと、そもそも哲学は、経験的なものの推移のただ中で超越論的なものを明らかにするという、特異な務めを負っているのである。
 
 
 したがって、哲学にとっての現代とは単なる「今の時代」ではなく、「今の時代」のただ中で、覆われ続けていた超越論的なものが明るみに出される黙示的な時間性のことをいうのである。哲学は、いわば哲学に固有な終末論を持たずにはいないのであって、哲学とは根源的に一つの黙示たらざるをえないのではないだろうか。
 
 
 閑話休題。ていうか、こういうマニアックな議論に入り込むことになるんなら、最初から話し言葉じゃなくて書き言葉で書きゃよかったんではないかという気もする。しかし、時すでに遅しとしか言いようがない上、ここでこうしてしゃべるような調子で書いてることにもそれなりの狙いがなくもないので、このままの感じでしゃべり続けることにしたい。
 
 
 
力能 存在 哲学 デカルト的有能性 無能
 
 
 
 それで、現代の人間である。一言で言えば、僕はこの時代の人間が向き合っている根源の問いとは、「僕は/わたしは何もできないんだけど、一体どうしたらいいの」というものではないかと思うのだ。
 
 
 何もできないし、そもそも何もすることがないよ。あるいは、自分には何かできるはずなのに、実際には何もできないよしくしく。この実感は、現代の人間のものであると同時に、哲学それ自体のものでもあるのではないか。
 
 
 繰り返しにはなってしまうけど、前の時代を見てると、哲学ってもっとずっと輝かしい何かとして、自分自身のことをプッシュできていたものである。
 
 
 しかし今は、理系の学問の有用性とか、外の世界の圧迫にも押しまくられつつ、哲学の肩身はどんどん狭くなっていってるのではないかという気がしてならない。現代の哲学は、おのれの無能を苦しんでいるのだ。かつて哲学という名のなんかカッコいい営みがあったはずなのに、それがどこに行っちゃったのかもわからないまま、哲学は自分自身の存在意義もわかんなくなって漂い続けているのではあるまいか。
 
 
 当然、哲学者のイメージもまた「立派な人」というよりも、「なんか残念な人」ということにならざるをえないということになってくる。しかし、この時代においてこそ哲学は、デカルト的有能性の根底にひそむソクラテス的無能を発見することにもなると思われるので、もう少しこのまま、この無能なるモメントについて掘り下げてみることとしたい。