イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

力能の喪失と、その極限としての死について

 
 問い:
 人間は、何らかの意味で有能でなければ存在していてはいけないのか?
 
 
 力能があるっていうことについては、人間の世界ではさまざまな可能性がありうる。例えば、頭がいいとか、スポーツできるとか、人付き合いがうまいとか。容姿がカッコいい/かわいいなんてのも、ある種の有能性と言えるかもしれない。
 
 
 しかし、「僕は取り立てていいところなんて、何にもないよちくしょう」という場合もあるだろう。そして、より根源的に言うならば、病気その他の不幸によって自分の力能が奪い去られるということは、誰にでも起こりうるのではなかろうか。
 
 
 そして、自分の力能が奪い去られた時、人間は、自分の存在意義はどこにあるのかという問いに向き合わされることになる。
 
 
 人間はおそらく、「力能によっておのれの存在を正当化する」という論理に従って思考せずにはいられない運命を背負わされている。この論理によるならば、役に立たない人間は存在していてはいけないのだ。まさしく「働かざるもの食うべからず」というわけで、力能を奪われた人間は力能の喪失を苦しむのみならず、自分自身の存在をも、すなわち、力能を持たずにただ存在しているという事実それ自体をも苦しむことになる。
 
 
 
人間 力能 逆流性食道炎
 
 
 
 この観点から物事を眺めてみるとき、例えば死という出来事についても、少しだけ考察を深めることができるのかもしれない。
 
 
 力能の論理には、どんな人間にとっても超えることのできない限界が存在している。それが死だ。死は、生きている間にはこの上なく強固なものとして機能していた力能の論理の働きを、その有無を言わさぬ運命の力によってストップさせずにはいないのである。
 
 
 この世では、力能の論理の圧迫は絶対とも言えるものかもしれない。だが、われわれはみな死ぬのだ。「わたしは、有能だから存在していてもいいはずだ」というロジックは、死を前にしては何の効力も持たないのである。
 
 
 これは今さら言うまでもないことかもしれないが、よく考えてみると恐ろしいことである。死ぬのめっちゃ怖い。この記事を書く前にも朝ごはんをつい食べ過ぎちゃったから、逆流性食道炎ぎみの僕としては、いっそう不安を抱かずにはいられないのである。
 
 
 ともあれ、油断してると単に「死ぬのめっちゃ怖い」みたいな話にもつれ込んでゆくことになりそうだが、ここで言いたいのは、ふだんは有無を言わさぬ力をふるっているように見える力能の論理も、死という出来事を前にしては完全に無力になってしまうということなのである。外堀は埋めたので、いよいよ存在の問題の中核に進んでゆくこととしたいが、今さらながら、朝ごはんを食べ過ぎたことはあらためて後悔としか言いようがないな……びくびく。