イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「唯一、絶対に確実な真理」

 
 論点:
 「存在のみ」の次元は、「この人間」の与えという出来事に結びついている。
 
 
 この辺りのことに関する事情は、すでに一度『「わたし」とは何か』で論じたので、もしあれならそちらも参照していただけるとありがたいのだが、ここではそこでの議論を、新たな視点も加えながら切り詰めて論じなおすこととしたい。
 
 
 古典的な論点から始めよう。われわれにとって絶対に疑いえない唯一確実な真理とは、「考えるわたし」の存在である。この点を確立したことは、デカルトにはじまる近代哲学が成し遂げた、極めて大きな達成であった。
 
 
 僕個人の例に即して言うならば、いま僕は、ここでこうしてノートにブログの原稿を書きつけている。本題ではないけど、僕はこのブログの記事を直接には打ちこまずに、まず紙のノートに書いてから、少し時間が経ったのちにiPadに移しつつ推敲しているのである。どうでもいい話でごめん。
 
 
 とにかく、いま僕は朝の部屋の中で、無印で買った薄茶色のノートにこの原稿を書いているわけである。んで、僕が今まさにこの瞬間にそう思っているということ、それは確実である。何がどう動こうとも、それだけは絶対に疑いえない……はずである。
 
 
 いや、「はず」とかではなく、「はず」が入り込む余地もないほどに確実なものと思われる。だって僕には黒ペンの手ざわりとか、ノートの白いページの表面も見えてるとか、いや今はノートに原稿書いてるっしょっていう思考の流れとか、色々あるもの。僕がいかに錯乱していようとも、あるいはもっとヤバくて実は発狂していようとも、それだけは確かなはず、いや、「はず」とかじゃなくて絶対確実、なはず……。
 
 
 
存在 デカルト コギト・エルゴ・スム カント フッサール 確実性
 
 
 
 この絶対確実性について「はず」とか抜きで「ガチで絶対確実」と言い切ったデカルト(17世紀前半)は、やっぱり本物のカリスマなんであろうなあ。そして、カント(18世紀末)とかフッサール(20世紀前半)みたいな哲学の巨人たちも、根本的にはこの「コギト・エルゴ・スム」の上に自分たちの哲学を打ち立ててきたわけである。
 
 
 注意すべきは、ここで肯定されているのは「今この瞬間に与えられている世界内的状況の確実性」ではなくて、「今この瞬間に思考しているわたしの存在の確実性(あるいは、今この瞬間に思考しているわたしの思考の存在の確実性)」にすぎないということである。
 
 
 ひょっとしたら僕はphio1985ではなくて、phio1985の夢を見ている誰か、あるいは何ものかにすぎないのかもしれぬ。『イデアの昼と夜』というブログは、本当は存在しないのかもしれぬ。確実なのはただ、僕が今この瞬間に自分のブログの記事をノートに書きつけていると思っている(感じつつ、思考している)という、そのことだけである。
 
 
 さて、この「コギト・エルゴ・スム」であるが、僕はこの思惟のモメントを、すでに論じてきたような存在の問いの地平のうちに置きなおして考えてみたいというわけなのである。この辺り、現代の哲学徒にとってはまさに基礎の基礎ともいえるパートだが、何事も本当にエキサイティングなのは基礎の基礎以外にないとも思われるので、このままもう少しこの論点について考え続けてみることとしよう。