イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「この人間」であることの受苦

 
 論点:
 現代の人間が向き合わされているのは、「この人間」であることの受苦という問題なのではないだろうか。
 
 
 「現代の」という表現を付け加えたのは、反出生主義のこととか、その他色んな事情があるわけだけど、ここで論じたい問題はおそらく、この世を生きるあらゆる人間にとって無関心ではありえないものなのではないか。
 
 
 僕って、一体何なんだ。なんで生きていて、これからも生き続けねばならんのか。もう無理だ。申し訳ないけど、僕のことはもう放っておいてくれないか……。
 
 
 こういう絶望に陥ったことのある人は、もちろん時代や場所にもよるだろうけど、ひょっとしたら、それほど多くはないのかもしれない。けれども、いつの時代でもそういう人たちがこの世に存在することは確かだし、病気とかさまざまな不幸のことを考えるならば(そしてパスカルの言っていたような、実存の惨めさなるものに思いをいたすならば)、こういう絶望と完全に無縁な人ってこの世には一人もいないのではなかろうか。
 
 
 要するに、生きることの苦しみである。そしてここではこの苦しみを、「この人間」であることの苦しみと表現してみたいのだ。
 
 
 僕って、何でこんな人間なんだ。この人生、もう完全に詰んでるよくそう。哲学は、こういう人間のうめきに向き合うものでなければならんのではないか。おそらくは、できる人、力能のある人の側に立つことではなく、できない人として、ただ存在していることしかできない人間としてうめき続けることこそが……。
 
 
 
人間 反出生主義 パスカル カリスマ 哲学者 ハウツー哲学
 
 
 
 哲学は、生きることの苦しみに対峙するものでなければならんのではないか。同じことばっかり言っててごめん。でもここは、とても大事なところなんではないかと思うのだ。
 
 
 できるようになりたいよ。あと、色んな悩みとか苦しみからも解放されたいものである。でも、仮に自分が「できる人」の一人になったとしたって、そして、自分自身は苦しみから抜け出たとしたって、世の中には生きることそのものに苦しんでいる人が無数にいるのだ。いや、そりゃ多分誰だって、苦しまないですむなら苦しまないでいたいというのは否めないのではあるが……。
 
 
 「この人間」の無能と苦悩である。ありのままの姿見せるのよ……。でも、ありのままの自分なんて誰も受け入れてくれないよ。カリスマ哲学者になりたかったとしたって、実際にできるのは、色々落ちぶれながら哲学を続けることしかできない残念な人として踏んばり続けることくらいである。そして、世の中って、自分自身に本当の意味での自信を持つことができないままに、そして、自分が存在していることの意味がわからないままに鬱になってる人であふれているのではないか。
 
 
 いやわかんない、別にあふれてはいないのかもしんないけど、少なくとも僕にとっては、これこそが哲学の向き合うべき問題なのではないかと思われるのだ。つまりは、生きることの苦しみという大問題であるが、人間には、できるようになるためのハウツー哲学よりも、できないままでも救われる慰めの哲学が必要なのではないかと思われるゆえんである。しょぼいと言えばしょぼいかもしれないが、少なくともそれが、哲学を学んできた中で今のところたどり着いている結論なのである。