イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

力能と存在忘却

 
 そろそろ、話も大詰めに差しかかってきた。
 
 
 論点:
 力能の問題は通常、二つ折れの与えに対する一種の遮蔽幕として機能している。
 
 
 二つ折れの与えとは、存在の与えである。だが、この与えがまさしく「与え」として与えられていることは、普段は忘れ去られているのである。
 
 
 なぜなら、われわれ人間が常に気にしているのは、自分は何かができる人間であるかどうか、もっと露骨に言うなら、自分は有能な人間かどうかという問題だからだ(ここで言う「有能」という言葉は、広い意味にとっておく必要がある)。存在問題のことで心を悩ませるのは、哲学者か、あとは実存的なレベルで苦しんでいる人々だけということになる。
 
 
 いわゆる存在忘却である。ここで僕が言いたいのは、哲学における存在忘却という現象は、人間が、その根本において力能に囚われている存在であるという事実に由来するものなのではないかということなのである。
 
 
 存在問題は、忘れ去られている。だが、われら哲学者にはハイデッガーと共に、存在問題をあからさまに提起せねばならないと訴え続ける必要があるのではないか。無能なる哲学はおのれの無能を極限まで突き詰めつつ、あらゆる力能の無意識にまで到達せねばならんのではないか……。
 
 
 
与え 存在忘却 ハイデッガー 哲学 力能 ニーチェ ルサンチマン
 
 
 
 もっと突っ込んで考えるならば、次のような論点も出てくるであろう。
 
 
 論点:
 存在忘却を助長し続ける限りにおいて、力能は存在の敵である。
 
 
 「敵」という表現には何やら穏やかならざるものもなくはないが、この対立関係を曖昧なままにしておくこともできない。力能は、存在の敵になりうるのだ。時には、哲学そのものが力能の獲得を目指すことさえなくはないとしても、そういったことすべてが存在忘却につながってしまう限り、力能は、やはり哲学という営みに仕掛けられた時限爆弾なのであろう。
 
 
 逆を言えば、存在忘却という危機ならざる危機が解消されるならば、力能は存在の敵であることをやめて、存在との和解に至ることだろう。ただし、形而上学的に突き詰めて言うならば、力能と存在とはいわば「対等」な並立的関係あるのではなく、力能が存在によって根拠づけられるという、ある種の存在論的な先後関係が成り立っていることには注意しておく必要がある。
 
 
 この辺り、たとえばニーチェみたいな哲学者からはただちに、「反-力能としての存在の哲学とは、つまるところは力能を持たないことへの怨みから発するルサンチマンの哲学にすぎないのではないか」という批判がなされることが予想される。次回の記事では、その辺の事情についてもう少し詳しく考えてみたい。