イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

形而上学と倫理、あるいは、独我論の崩落

 
 論点:
 形而上学と倫理とは一つである。
 
 
 隣人を自分自身のように愛するって、一つには、相手をそのあるがままの姿にも関わらず愛するってことである。
 
 
 これって結局は、相手の存在をそのまま受け入れるってことではないか。そして、そのことは、つまるところは相手の力能ではなく存在を愛するってことにつながってるのではなかろうか。
 
 
 かくして、存在の思索と日常的な隣人たちとの関わりとは、実はめちゃくちゃ深いところでつながっているのではないかと思われるのである。そして、このことは哲学的に言うならば「形而上学と倫理とは一つである」と表現できる事態なのではあるまいか。
 
 
 この点について、思い起こしておきたい哲学者はエマニュエル・レヴィナスである。レヴィナスは、形而上学と倫理とのつながりを、たぶん現代の哲学者たちの中ではとりわけ深く見抜いていた。自身の哲学を固めてゆく中で、彼は他者を「存在」よりもむしろ「存在することの彼方」として捉えるようになっていったので事情はそう単純ではないが、今ここで行っているような議論の先達としては、やはりここで名前を挙げておくのが適当というものであろう。
 
 
 ともあれ、かくして二つ折れの与えを与えとして受け入れること、他者をそのあるがままの姿にも関わらず愛することとは、同じ「存在への従順」として、等根源的な存在忘却への立ち返りとして達成されるということになる。敬虔はやはり、この現代という時代においてもなお人間に求められる徳目の一つに数えられるということになるのではあるまいか。
 
 
 
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 哲学的にもう少し詰めておくと、他者の存在を受け入れるって、コギトが自己自身に対してしか認めていなかった「わたしはある」を、自己ならざる「他のコギト」に対しても認めるってことである。
 
 
 考えるわたしには、わたし以外の他の「考えるわたし」の存在なるものはどこまでも未知なものでしかなく、それが直接に与えられることは、原理的に言って決してないであろう。この事態を、たとえばコギトの独在性という風に表現することもできるかもしれない。
 
 
 しかし、独在性を、最高度の明晰判明性を伴って与えられる「わたし一人しかいない」を乗り越えて、他者が存在しているという根源的事実がわたしに対して告げられる。それは、あらゆる明証を拒絶しながらも、あらゆる明証を越えたところで与えられる確信である。
 
 
 倫理学としての哲学は、独我論がいかなる証明もなしに崩落するこの瞬間を、他者の「わたしはある」が考えるわたしの独在性を打ち砕く、その打ち砕きを思惟しなければならぬ。他者問題を存在問題と絡めながら考えてみるというこの課題に、これからもう少し取り組んでみることとしたい。