イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

確実性と不確実性の問題:「賭け」の議論において、何が問題になっているのか

 
 パスカルの言葉を手がかりにして、私たちが問題としているテーゼ「実存は賭けである」について、さらに検討を加えてゆくこととしたい。
 
 
 「賭をする者は、だれでも、不確実なもうけのために、確かなものを賭けるのである。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より)
 
 
 「確実性」と「不確実性」とは、パスカルの「賭け」の議論を理解する上で非常に重要な概念である。今回の記事では、この二つのタームを通して目下の主題について考えてみることにしよう。
 
 
 賭けには普通、賭け金と呼ばれる要素が付随する。つまり、自明なことではあるが改めて考えてみると、賭ける時には、人は何かを担保として支払うことによって賭けるのであって、この支払いは現実において、確実になされるのでなければならない。私たちが問題としている「賭けとしての実存」の場合には、支払われる賭け金は「実存」そのものであり、つまりは賭ける人間の「全人生」である
 
 
 しかしながら、この賭けはまさしく「賭け」なのであるから、この支払いに対して見返りが必ずあるとは限らないのである。儲けは必然的に不確実なものでしかありえないのであって、「見返りが大きければ不確実性もまた大きい」というのが、私たち人間存在の実存を支配している法則のようである。かくして、パスカルの言葉を繰り返すならば、「賭けをする者は誰でも、不確実な儲けのために確実なものを賭けるのである」ということになる。
 
 
 私たちはここで、パスカルの議論と、『存在と時間』におけるハイデッガーの議論との交錯に注目しないわけにはゆかない。『存在と時間』における死の完全な実存論的概念とは、現存在であるところの人間が有する「最も固有で、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実な、それでいて未規定的な可能性」であった。ここに含まれている「確実な」という規定が指し示している契機が、パスカルの『パンセ』においては「賭け金は支払われなければならない」という仕方で表現されていることは、改めて注目されてよいものと思われる。ここにおいては、実存の哲学者としてのパスカルがあたかも、『存在と時間』における「現存在が有する確実な可能性」に関する議論をはるかに先取りしていたかのような観を呈している。現存在であるところのわたしは、死の可能性が確実であることを正面から引き受けながら自らに差し向けられた「賭け」を賭けるのであって、そこで支払われる賭け金とは、わたし自身の命そのものである。得られるかもしれない、あるいは失われるかもしれない見返りあるいは報酬とは、わたし自身の「最も固有な存在可能」に他ならない
 
 
 
パスカル 実存 賭け 確実性 不確実性 存在と時間 パンセ 最も固有な存在可能
 
 
 
 「賭け」の議論におけるパスカルの目的とは、大きな賭けに出るのをためらわずにはいられない日常性の立場を説得して、賭けることの「非合理的な合理性」とでも呼ぶべきものに従って自分自身の実存あるいは全体的存在可能について考量してみるよう、読者を説得することである。
 
 
「神なるものは果たして存在するのか、それとも、存在しないのか。」このような二者択一に向かって自分自身の人生を賭けるように迫られるとしたら、日常性の方としては、必ずや「わたしはそんな不確実なもののために、わたし自身の人生を犠牲にはしたくない」と抵抗することであろう。すでに見たように、このような立場に対するパスカルの回答とは「誰でもみな、賭けをする時には不確実な儲けのために、確実なものを賭けるのである」に他ならないのであった。すなわち、人間はその人生の過程において何が起こるにせよ、いかなる成功と失敗とが彼あるいは彼女を訪れるにせよ、いつかは必ず死ぬのである。死んで無になるという可能性に避けようもなくさらされているのであってみれば、有限な一存在者として、神という無限なものに賭けてみることに一体何の不合理があろうかというのが、『パンセ』におけるパスカルの議論の骨子に他ならない(cf.日常性の方は「確実な可能性」としての死から逃避しているからこそ、「実存は賭けである」を封印しているのである)。
 
 
 確かに、パスカルの主張していることには、少なくともその論理を追っている限りにおいては何の不合理も存在しない。ただし、全実存あるいは全人生を一つの「賭け」として捉えるその発想のスケールの大きさが、日常性の次元を粉々に破砕せずにはおかないほどに大胆で度外れなものであることは確かである。『存在と時間』の文脈に置き直してみるならば、問題になっている事態はさしずめ、次のように表現することもできるのではあるまいか。すなわち、現存在であるわたしは、自らの死の確実性を引き受けることのうちで、自分自身の「最も固有な存在可能」に向かって自己投企することを決意する。このことは、確実なものを確実なものとして逃げることなく真とみなしながら、不確実な「賭博者の栄光」に向かって自分自身に与えられた全額を決然として投入してゆくことを意味しているのである、と。このように、「不確実性」なるものを「不確実性」として正面から引き受け直し、実存することそのものを「可能性の選択」のドラマとして掴みとることがパスカルの、そして、『存在と時間』におけるハイデッガーの思索の要点に他ならない。次回以降の記事ではこの「確実性」と「不確実性」という規定について、パスカル自身が身を置き入れていた歴史的文脈のうちに定位しながら、さらに詳しく掘り下げてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[2022年も始まってまだ半月と少しですが、すでに長い時間が経ったような気がします。ブログやTwitterでの関わりを通して、日々、自分自身の生き方を揺さぶられ、学ばされています。失敗することもあるかと思いますが、長い目で見てお付き合いいただけたら幸いです。]