イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

輝きは、苦しむことを通して生まれ出てくる:「不安」と「幸福」の関係をめぐって考える

 
 前回に引き続き、「存在することの重み=舞台上の緊張の重苦しさ」に関するキルケゴールの言葉を題材にしつつ、考察を掘り下げてみることにしたい。同時代の女優であったJ・L・ペーツゲスが体現している「軽やかさ」について、彼は「危機」の中で次のように言っている。
 
 
 「舞台上の重くるしい緊張の中においてこそ、まさに彼女の本領が発揮されるのであり、そこにおいてこそ彼女は小鳥として舞い上がり、まさに重さは彼女に軽さを与え、重圧は彼女に最も高き所への飛翔を約束する。そこには不安の影一つない。彼女は舞台裏ではおそらく不安であろうが舞台上では幸福そのものであり、自由を得た小鳥のように軽やかである。
 
 
 この箇所でキルケゴールは、人間存在の力の源泉としての不安について語っている。このことは、「不安」がこの哲学者の探求の根本主題の一つであったことを考えると非常に意味深いものであると言えそうであるが、ここで彼が主張しているのは、およそ次のようなことである。
 
 
 舞台上で乙女ジュリエットを演じているペーツゲスの姿は飛翔する小鳥のように軽やかであり、見るもの全てをうっとりとさせる。しかし、この上なく幸福そうに見える彼女自身は自らの存在や舞台上の役割に対して、不安を感じることはないのだろうか。キルケゴールは言う。そんなはずはない。おそらく、舞台裏で彼女が感じているであろう「不安」の気分は、この上なく重苦しいものであるに違いない。
 
 
 ところが、これが舞台人、あるいは一般に表現者と呼ばれている人々の営みを支えている秘密の中の秘密とも言うべきものなのであるが、彼らは不安を持つ「にも関わらず」最高のパフォーマンスを成し遂げるのではなく、不安を持つ「からこそ」最高のパフォーマンスを成し遂げるのである。まさしく、舞台の上では「不安」は「幸福」へと、いとも軽やかにその姿を変えてしまう。この秘術をひとたび体で覚え込んだ表現者のことはもはや、観客たちの方が放っておかないであろう。人間というのはいついかなる時代においても、鮮やかな技や奇跡的な達成といったものを見たくてたまらない存在なのである。
 
 
 こうしてみると、「不安」は人間の営みを妨げてしまう障害である以上に、営みの原動力そのものであるとも言うべきものであることが、次第に分かってくる。この後に引用するキルケゴール自身の言葉を借りるならば、不安とは一種の「弾力性」に他ならない。すなわち、不安とはより高い所への跳躍や飛翔を行うために必要な「実存のはずみ」に他ならないのであり、人間の生の要点とはつまるところ、この「はずみ」の強烈な力に押しつぶされてしまうことなく、「はずみ」を原動力として「表現」や「生のかたち」と呼びうるような何物かを生み出してゆくことにこそあると言えるのではないだろうか。
 
 
 
キルケゴール J・L・ペーツゲス 不安 哲学 現存在 良心の呼び声
 
 
 
 「練習部屋や、また舞台裏で不安という形をとって現れていたものは、けっして実力のなさというものではなく、それと正反対のものであり、弾力性と呼ばれるべきものである。この弾力性こそが彼女を不安にするのである。[…]そして舞台上の重くるしい緊張の中にあっては、この不安は力強さとして、いとも幸福にその姿を変容してしまうのである。」
 
 
 上の文章については、次の二つの点を指摘しておくことにしたい。
 
 
 ① まずは、現存在である私たち自身の「不安」との向き合い方に関してである。実存することの重苦しさそのものであるところの「不安」は、「役割を演じること=務めを果たすことの幸福」へと変容させることが可能であると、上の文章は示唆しているもののように思われる。おそらくこのことは、舞台の上でも、また、実人生においても容易でないことには違いない。だが、この困難さは原理的な不可能性を意味するわけでは決してないのであって、ここにおいてはキルケゴールも言うように、正しい仕方で不安になることを学んだ者こそ、最高のことを学んだと言うこともできるのではあるまいか。
 
 
 ② もう一つの論点の方もまた、理論的にも実践的にも第一の点に劣らず重要なのではないかと思われる。それは、人間は一つには「輝いている人や作品」を見ることを通してこそ、他者たちの「重荷」をうかがい知ることを学んでゆくのではないかという点に他ならない。
 
 
 輝いている人や作品を目にするとき、人は自然と憧れの思いに捉えられることになる。しかし、ここまでの考察からも明らかなように、真正な輝きを放つものは例外なく(おそらくは、たった一つの例外もなく!)、生きることの重みと格闘するところから生まれ出てきているのである。このことに思いを馳せる時、私たちは、「生きることとは苦しむことに他ならない」という事実に対して、これまでとは異なる仕方で向き合うこともできるのではないか。私たちの胸を熱くさせ、「あんな風になりたい」「ああいうものを作りたい」と心の底から思わせるような人や作品から放たれる輝きの全ては、不安を伴う実存の重みにこそ、その根源を持っていると言えるのではないだろうか。ここには、「幸福」なるものの奥義(おくぎ)あるいは神秘が示されているようにも思われるが、私たちとしては引き続き、「良心の呼び声」をめぐる問題圏を掘り進めてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]