イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイデッガー『存在と時間』を読む

「見よ、すべてが新しくなったのである」:賭けに出ることへの「ためらい」の問題に対する、『パンセ』の処方箋

「賭け」に関する議論も、そろそろ大詰めである。『存在と時間』の方に戻ってゆくという意味でも、私たちは最後の主題として、次のような問いについて改めて考えておくことにしたい。 問い: 「『実存は賭けである』というテーゼについては、確かに了解した…

「最も根源的な真理とは、実存の真理である」:パスカルの場合を通して、『存在と時間』の根本テーゼについて考える

今回は、パスカルが残した次の言葉を読み解くという形で探求を進めてゆくこととしたい。 「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片4より) すでに触れたように、パスカルが生きていた17世紀に開始され…

「恐るべき天才」:ブレーズ・パスカルはいかにして、サイクロイドの求積法を発見するに至ったか

今回の記事では、「賭け」の議論を提出したブレーズ・パスカルその人の実存の方へと目を向けてみることにしたい。 論点: 思索者としてのパスカルは、彼の生きていた時代の新しい潮流の中でめざましい活躍をする可能性を持っていたにも関わらず、その実存を…

哲学の使命:あるいは、パスカルはいかなる点において、自分自身の時代を代表する哲学者に対して抵抗せざるをえなかったのか

今回の記事では「賭け」の議論に立ち戻りつつ、パスカルの思索の戦いの歴史的な文脈について考えてみることにしたい。 論点: パスカルにおける「賭け」の議論の全体は、デカルト主義における「幾何学的な秩序を備えた論証による、絶対確実な真理の導出」と…

「デカルト革命」:一人の思索者は、いかにして当時の哲学の世界を徹底的な仕方で転覆したか

私たちは、「賭け」についての『パンセ』の議論の歴史的側面にも注目しながら、パスカルの立場について、もう少し掘り下げて考えてみることにしたい。 論点: 「賭け」についてのパスカルの議論のうちには、彼がその最晩年の思索において、全実存を賭してデ…

確実性と不確実性の問題:「賭け」の議論において、何が問題になっているのか

パスカルの言葉を手がかりにして、私たちが問題としているテーゼ「実存は賭けである」について、さらに検討を加えてゆくこととしたい。 「賭をする者は、だれでも、不確実なもうけのために、確かなものを賭けるのである。」(『パンセ』ブランシュヴィック版…

「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」:ブレーズ・パスカルは彼の読者に対して、「賭けることへの被投」の問題を提起する

2022年の現在を生きている私たちにとって、思索者としてのパスカルが提起したさまざまなイデーは一体、どのような意味を持っているのだろうか。ここから数回の記事では、「賭け」に関する『パンセ』の議論の検討を通して、『存在と時間』の思考の可能性をさ…

存在論的テーゼ「実存は賭けである」:パスカル『パンセ』の問題圏へ

『存在と時間』に依拠しつつ哲学の歴史そのものに対する理解を深めるためにも、ここから数回の記事では、次の論点について詳細に検討を加えてみることにしたい。 論点: 「全体的存在可能を生きること」は、実存の全体を一つの「賭け」として生きることを意…

「現存在であるわたしが、後ろを振り返ることのできない理由」:『存在と時間』における「全体的存在可能」の概念

私たちの探求は、「死への先駆」が提起する問題の核心の部分に到達しつつある。 論点: 「死への先駆」は、現存在であるわたしが、自らの「全体的存在可能」を実存する可能性を開示する。 この「全体的存在可能」、あるいは「全体としての現存在」という論点…

「兄弟姉妹よ、今しばらくの辛抱だ」:1784年、イマヌエル・カントは彼自身の「最も固有な存在可能」を、いかにして引き受けたか

「単独な現存在を生きること」という主題について掘り下げつつ、後に『存在と時間』の論理に即して「本来的な仕方で共同相互存在すること」の可能性を問うための足がかりを作っておくためにも、カントの「啓蒙とは何か」についてもう少し見ておくことにした…

知る勇気を持つとは、いかなることか:カントが「啓蒙とは何か」を通して、私たちに語りかけていること

死の可能性のうちへと先駆することによって、現存在であるわたしは「単独な現存在を生きること」の圏域へと導き入れられてゆく。この「単独な現存在」なる規定については、イマヌエル・カントが1784年に書いたテクスト「啓蒙とは何か」を参照しながら、ここ…

「ルビコンは、渡られねばならない」:「先駆」は現存在であるところのわたしを、単独者であることのうちへと呼び覚ます

死の可能性のうちへと先駆することによって〈ひと〉から引き離されるのと同時に、現存在であるわたしの目の前には、一つの根底的に新しい経験の領野が開けてくることになる。それこそは、「単独者として自己を生きること」の圏域に他ならない。 「先駆するこ…

リミッターが外されるとき:「先駆」は現存在であるところのわたしを、〈ひと〉の働きから決定的な仕方で解き放つ

まずは、「死へと関わる本来的な存在」を実現する契機としての「死への先駆」が人間存在をどのように変容させてゆくのかを見定めるという、2022年の最初の課題に取りかかることとしたい。 「死への先駆」は現存在であるわたしを、「本来的な自己を生きること…

「何か根底的に新しい、一つの哲学の時代が……。」:2022年の哲学の探求を始めるにあたって

2022年を迎えたが、今年もこれまでと同じく、ひたすら哲学の営みに打ち込んでゆくことにしたいと思う。今回の記事では年の初めということで、まずは今年の最初の目標を掲げつつ、この後の探求のために気分を整えておくこととにしたい。 2022年の当面の目標:…

哲学の問いとして、「自己の問い」を問う:2021年の探求の終わりに

今回の記事で、2021年の『イデアの昼と夜』の探求も終わりである。来たるべき次の年に向けて議論を整理しつつ、私たちの探求がこれから向かってゆく先を確かめておくこととしたい。 論点: 「死への先駆」によって啓示される本来的実存の可能性とは、「現存…

考える人は、自由そのものであるような〈生のかたち〉を探し続けている:『存在と時間』における「先駆」概念は何と向き合い、どこへ向かってゆくのか

私たちは、「ホモ・サケル」の概念や、反出生主義の問題といった主題を通して、「現代における生」がはらんでいる問題についてすでに見てきた。今や、『存在と時間』の「死への先駆」の方へと立ち戻って、再び検討を加えるべき時である。 「死へとかかわる存…

反出生主義に関する二つのテーゼ:ハイデッガーとアガンベンを通して考える

問題提起: 後期ハイデッガーの「存在から見捨てられていること」やジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」といった概念は、反出生主義の問題を考える上でも有効な手がかりを与えてくれるものなのではないだろうか。 私たちの時代のグローバル秩序は、「…

ホモ・サケルの時代:ジョルジョ・アガンベンと『存在と時間』、あるいは、「部屋に閉じこもって病んでいること」の根底にあるもの

「存在から見捨てられていることSeinsverlassenheit」の時代としての現代とは、「生から見捨てられていること」の時代でもあるのではないか。このような問いかけのうちに入り込むとき、私たちはこれまで論じてきた『存在と時間』の議論に対して、より深い所…

「現代とは『生から見捨てられていること』の時代である」:後期ハイデッガーの思索から『存在と時間』へ

〈ある〉の意味が失われているという「存在忘却」の現象はその根源をたどるならば、「実存忘却」とでも呼ぶべき事態にまで行き着くのではないか。人間存在にとって「死のうちへと先駆すること」が持っている意味について考えるために、この論点を、ハイデッ…

「呼吸をすることさえも、忘れるかのようにして……。」:「先駆」とはまずもって、生きることの取り戻しを意味する

論点: 実存の本来性を可能にするはずの「死への先駆」は、現存在であるわたしが死の可能性に関して現実性の次元に巻き込まれることなく、「可能性を可能性として耐え抜くこと」を要求する。 この論点は、『存在と時間』において提示されている人間存在の姿…

「可能性のうちへと先駆すること」:哲学はひたすらに演劇的でパトス的であるような自己投企のために、イデーを練り上げる

私たちの実存論的分析はこれまでの歩みを経て、「死の完全な実存論的概念」に到達した。 死の完全な実存論的概念: 死とは、現存在であるところの人間が有する最も固有で、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実であると同時に未規定的な可能性である…

哲学とは、絶えることのない「自己との対話」に他ならない:実存論的分析の歩みから垣間見えてくる、思索者のエートス

私たちはこれまで、「死へと関わる存在」の日常的なあり方について見てきた。今や、ここから遡って死の実存論的概念を完成させることによって、「死へと関わる本来的な存在」の方へと進んでゆくための準備を完了させる時である。 これまでの分析において、死…

「人間は、木や石ではないのであってみれば……。」:『徒然草』の著者が伝えたかったこと

「死へと関わる存在」の日常的なあり方という問題についてはもう少しだけ、一つのテクストを参照しつつ考えておくことにしたい。この論点を掘り下げるにあたっては、『徒然草』第41段で語られているエピソードが教えてくれることは少なくないように思われる…

「メメント・モリ」は語られ続ける:生の日常と哲学の問い

「死へと関わる本来的な存在」の可能性を問うためには、その前提として、「死へと関わる存在」の日常性におけるあり方を見定めておく必要がある。 論点: 日常性において、私たち人間は〈ひと〉として、「死へと関わる存在」について語ることを避け、それを…

「実存の本来性」をめぐる問題圏の射程:プラトンやアリストテレスはなぜ、〈アレテー〉についてかくも熱心に語り続けたのか

「人間が死ぬことの可能性へと投げ込まれているという剥き出しの事実は、根本的情態性である不安によって開示されている。」前回に取り上げたこの論点からは、この後の探求の道行きそのものを突き動かしてゆくともいえる、次のような問いが浮かび上がってく…

単独者であることの務めを、他者と分かち合うこと:あるいは、十返舎一九はいかにしてこの世を去っていったか

死ぬことの可能性は、実存、すなわち「可能性に関わる存在」を生きる人間存在の、その極限の姿を指し示す。次の課題は、この可能性がいかなる可能性であるのかを、存在論的な仕方で見定めることである。死の実存論的概念を構築することに向かって、ハイデッ…

キルケゴールからハイデッガーへ:実存のリアルは、「可能性へと関わる存在」として人間に差し迫っている

ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、「死へと関わる存在」をめぐる議論の方へと戻ってゆくことにしよう。 「生をはなれることを医学的-生物学的に探究することで、存在論的にも意義を有しうる成果を獲得することが可能であろうが、それは、死に…

2021年、哲学の現在はどこにあるのか:マルティン・ハイデッガーとエマニュエル・レヴィナスの思索を通して、見えてくるもの

存在問題を問うという点に関しては、もう一つの補足をしておかなければならない。今回の記事の内容は『存在と時間』の読解の範囲を超えて、もう少し広い問題の圏域を取り扱うことになるが、哲学の歴史を顧みつつこのブログの目指すべきところを見定めたいと…

哲学の歴史にとって、1927年とはいかなる年であったか:『存在と時間』と私たち

論点: マルティン・ハイデッガーによって「死へと関わる存在」のモメントと共に「存在の問い」が提起されたことは、哲学の歴史そのものにとって無視することのできない意味を持つのではないだろうか。 私たちはここで、哲学の歴史を〈存在〉の問題圏を軸に…

「存在の意味への問い」:Sein zum Todeの概念において、賭けられているもの

論点: 死の現象は『存在と時間』が提起している「存在の問い」そのものにとって、根源的というほかない重要性を持つものである。 ハイデッガーの言葉を借りるならば、死ぬこととは人間にとって、現存在することの「不可能性の可能性」を意味している。すな…