イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現代のブッディスト、ジル・ドゥルーズ(2)

ひとつの生は、内在の内在、絶対的な内在。それは力、まったき至福。
 
ジル・ドゥルーズ「内在 ーひとつの生……」

 

  主体や対象といったアクチュアルなもののを超えでて、経験が生まれでてくるところへさかのぼってゆくと、そこには、ヴァーチャルなものの圏域が広がっている。擬ナーガールジュナが讃えていたのと同じように、ジル・ドゥルーズも、原理的にいって肯定的なものでしかありえない多様な力と、まじりけのない無数の至福に満ちあふれたこの領域にたいして、賛辞をささげることを惜しんでいません。
 
 
  すべてのもののうちには、ただ「これはこれだ」としか言いようのない特異性が宿っている。アクチュアルなこの世界のなかでは、すべてのものが移り変わってゆくということは否定できないにしても、特異性それ自体は、ヴァーチャルなレヴェルにおいて微動だにすることなく、永遠にとどまりつづけている。私と雨とが消えさるとしてもまったく揺らがない、雨降りの永遠真理です。そのことに気づくならば、擬ナーガールジュナが言うように、存在するあらゆるものは、「無垢であり、変わることがなく、始め・中間・終わりにわたって清らかである」ということを知ることになるでしょう。『大乗二十頌論』は、この認識によってこそ私たちは、輪廻という迷いの海を超えて、その向こう岸に渡ることができるのだと主張しています。
 
 
  しかし、私たちはここで、途方に暮れてしまいます。なにしろ、ヴァンセンヌの哲学者にしても、大乗の知者にしても、主体も対象もないところで生きるという、にわかには想像しがたいことを考えるように、私たちにたいして要求しているからです。けれども、この二人のどちらもが、それぞれあるキーワードを用いることによって、私たちの理解を助けてくれてもいます。今から、その言葉を順に見てみることにしましょう。
 
 
ジル・ドゥルーズ
 
 
  擬ナーガールジュナは、空という語を用います。自我、それは空だ。世界、これもまた空だ。確かな基盤があると思われているものには、実は支えなど何ひとつない。すべての生き物たちは、まるで描いただけの絵を見ておそれおののく人のように、実体のないものに実体があると思いこむことによって、ずっと苦しみつづけている。しかし、本当のことをいえば、空洞でないものなど、何ひとつありはしないのだ。世界にはいわば、いたるところに穴が開いているのだとでも言えようか。だから、覚者たちは、いつまでも騙されていてはいけない。妄想が生まれてくるたびに、空性の真理によって、ただちにそれを払いのけるのだ。
 
 
  そう言われても、わかったようでよくわからないと言いたくなるのも事実です。けれども、空という言葉は、なにか直観的に響いてくるものを持っている。正確にいってどういう意味を持つものであるのかがすぐにはわからないとしても、何かしらの根底的な問題に触れてしまっているということだけは、はじめてそれを聞く人でも予感できる。ナーガールジュナ本人が書いた『中論』の精緻で複雑なロジックを追ってみる気になるという人は、今ではとても稀です。けれども、大乗の教えのなかで、空という言葉が現在でもこれほど有名なものであるのは、この言葉がそれだけのポップさを備えていたからなのでしょう。
 
 
  それでは、ジル・ドゥルーズの方はどうなっているのでしょうか。大乗の教えが空という言葉を用いて語ろうとしていたのと同じ事態を、ジル・ドゥルーズは別の視点から、内在平面という語を用いて説明しようとしています。「わたしの哲学をもし名づけるとするならば、内在の哲学とでも呼べようか。」ドゥルーズは、晩年を迎えるにつれて、ますますこの確信を深めていったようにみえます。内在平面とはいったい、どういう概念なのでしょうか。次回は、この点について論じてみたいと思います。
 
 
 
(Photo from Tumblr)