イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

もし大阪が消滅するならば、アメリカは?   ー東アジア情勢の、むき出しのリアル

 
 引きつづき、例の本におけるアーミテージ氏とナイ氏の言葉をたどってみることにしましょう。ちなみに、この二人とも日本国憲法第9条については、2010年の時点においても「改正するのではなく、解釈を変更することによって集団的自衛権の行使を可能にするのが望ましい」と言っています。「9条を変えるのはとても大きな労力を要するが、内閣法制局による解釈変更だけで用は足りる。」なんとなく、最近どこかで耳にした話のような気もしますが、本題に戻ります。
 
 
 核ミサイルによる先制攻撃について、もう少し見ておくことにしましょう。ナイ氏は、次のように言っています。
 
 
 先制攻撃を仕掛ける場合、それが核ミサイルのサイロであれ、ミサイルそのものであれ、我々は必ず破壊できるように一カ所に対して二発の核爆弾を使います。そして、米国はそれを実行できるだけの兵器を保有しています。しかし、中国にはこの「二対一」の原則を守るだけの兵器がありません。だから、中国は「核の先制不使用」と言うのです。その理由は先制攻撃を仕掛けるだけの核戦力を持っていないからです。
 
 
 数が違う。それが、核戦略におけるアメリカの強みのようです。たしかに、他のところで行われた推計などを見てみても、少なくとも現在の状態においては、アメリカと中国のあいだに圧倒的な弾頭の数の差があるということは確かなようです。ただ、中国は一貫して核戦力の強化に努めつづけているので、この差が縮まってゆく可能性については、つねに考慮しつづけなくてはならないでしょう。
 
 
東アジア情勢
 
 
 つづいて、インタビュアーの春原剛さんが引き合いに出している、ナイ氏の発言を取りあげてみることにしましょう。
 
 
「心配しなくても我々は即座に報復攻撃に出る」
 
 
 これは、「中国がもし大阪に核爆弾を落としたとしても、アメリカは報復しないのではないか」という質問にたいして答えたものだそうです。アメリカが北京に核攻撃を仕掛けたら、中国はその仕返しとして、たとえばロサンゼルスに核爆弾を落とすかもしれない。そうなると、アメリカは大阪のためにロサンゼルスを犠牲にすることになる。したがって、二つの都市を天秤にかけたのちに、アメリカは日本を見捨てるのではないか。しかし、ナイ氏はこの疑問に答えて、「そんなことはない、ちゃんと報復する」と言っています。大阪が消滅するならば、アメリカは義理を守る……それにしても、そろそろ書いている僕の方も恐くなってきました。最後に、アメリカが日本を「有事のさいに」見捨てたりはしないことの根拠だけ書いておいて、この記事をはやく終わらせてしまうことにしましょう。ナイ氏はこう言っています。
 
 
 ドイツにおいて核の抑止力を強めたのは、ベルリンに中距離核弾道ミサイルを配備することではなく、米軍をそこに維持しておくことだったのです。今日、そのロジックは日本にも当てはまります。
 
 
 日本に駐留しているアメリカ軍の最も大きな役割の一つは、そこにアメリカ国籍をもつ人間を存在させつづけることである。青森の三沢や横須賀、それからとくに沖縄といった場所にある基地のなかでアメリカ人が生活しつづけていることによって、アメリカにはいざという時に日本を守る必要が生まれてくるのだ。アーミテージ氏は、ナイ氏のこの発言につづいて、「私は『人質』という言葉を用いることを避ける」とコメントしていますが、春原剛さんが指摘しているように、これが「極めて高度な政治的メッセージ」であることは確かでしょう。
 
 
 私たちは「人質」を置いているのだから、有事のさいにはちゃんと核兵器で報復する。少なくともこれが、アメリカ側が暗黙のうちに提示してくれている、私たちを助けてくれることの根拠になっています(もちろんこれは、国家が公式に発表するような類のメッセージではありません!)。数年前に民主党政権時代の鳩山前首相が基地問題にかんして突きあたることになったのも、おそらくはこれと同じ問題だったのではないでしょうか。あくまでも推測に過ぎませんが、東アジア情勢のリアルをむき出しのかたちで叩きつけられたと考えるならば、あの時期の彼の発言がとてもクリアーに理解できるものになってくるというのは確かです。
 
 
 それにしてもこの「人質」にかんするアメリカ側の主張ですが、はたして本気なのか、本気でないのか……正直に言って、僕には判断がつきません。この点については、まわりの友人たちとも何度か話し合ってみましたが、どちらとも結論は出ませんでした。冷静に考えることを仕事としている哲学者がこう言うのはNGかもしれませんが、第一印象としては、ただただ恐いです。
 
 
 東アジア情勢
 
 
 前回も書きましたが、リチャード・アーミテージ氏とジョセフ・ナイ氏による発言は、国家としてのアメリカのスタンスをそのまま述べたものではありません。核戦略にかんしては心理戦の要素がとても大きく、威嚇やはったりの世界でもあるのだから、そこで話されていることにどれだけのリアリティーがあるのかという疑問を差しはさむことも可能です。
 
 
 けれども、私たちの想像もつかないようなタイプの思考が日夜行われているということ、そして、私たち市民が自分の生命についてどのように考えていようと、大国の首脳たちは国際関係について、核兵器のレベルで考えているし、考えざるをえないのだということについては示すことができたのではないかと思います。以下のリンクは、東アジア政策の領域においてはとてもよく知られているアメリカのシンクタンクCSIS)によって、2013年に発表されたレポートです。アナリストのアンソニー・コーズマンがこのレポートにつけたタイトルは、『レッドライン、デッドライン、考えられないことを考えること』。このタイトルのなかには、私たちがすでに見た、ハーマン・カーン博士の著書のタイトル(''Thinking about the Unthinkable")が引用されています。レポートにおける分析によると、現在の地球で最も核戦争を起こす可能性が高いのは、インドとパキスタンでも、イスラエルとイランでも、あの北朝鮮でさえもなく、中国とアメリカだそうです。
 
 
  
 
 過度の心配で終わればいいと思いますが、僕は、自分の国の未来について考えるうえで、核戦略というファクターを考慮に入れないでおくことはできないのではないかと考えています。現在の集団的自衛権の行使にかんする問題も、今後の数年ではなく数十年という巨視的な視点からみると、やはり核戦略への関わり方が最も重要な要素になってくるのではないでしょうか。もちろん、紛争やテロ、サイバー戦などといった要素を軽視してはならないと思いますが、21世紀の地球は、核戦争や核を用いたテロさえ起こらなければ、大枠からいうならばよい世紀だといえるのではないか。
 
 
 もうずいぶん昔から、ブラックユーモアをまじえることなしには世界情勢のリアルについて語ることができなくなっていることを、どうやら認めざるをえないようです。現代の平和は、人類を滅ぼしつくすことのできる量の爆弾によって支えられている。私たちはいま、ポスト冷戦の相対的な安定期にいますが、このことについてはつねに思い起こして警戒しておく必要があるのかもしれません。
 
 
 けれども、暗くなってばかりもいられません!当初からすこし予定が変わってしまいましたが、次回からの記事では、9条そのものにもう一度立ち返ってみたいと思います。9条を今のこの時点で主体的に選択することは、たんに理念の上だけではなく、国際社会で生き残ってゆくうえでもリアリスティックで創造的な戦略になりうるのではないか。ただし、この点については僕も自信があるというわけではないので、ひとつの提案というかたちで提示させてください。
 
 
 
 
 
[予定はすこし変わりましたが、このシリーズは先にお伝えしたとおり、終戦の日までには終わると思います。他のみなさんのブログを読ませていただいていて、平和を願っている人は今でもとても多いのだということに、改めて気づかされました。核の話ではすこし暗くなってしまいましたが、世界平和について、残りの記事の中でもできるかぎり考えてみることにします!]
 
 
 
(Photo from Tumblr)