イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この小さな国の平和を守りつづけるために   ー9条についての、とりあえずの結論

 
 前回の記事では、「軍事路線の大国から独自路線の小国へ」というフレーズを立てました。僕は、「大国ではなく小国路線へ」という標語については、9条についてどう考えるにせよ、この国で生きる人たちから少なくない共感を得られるのではないかと思っています。「軍事面でのメンツよりも、平和な暮らしがいちばんだ。」こうした方向を実現するためには、9条を守りつづける道も改正する道も、論理的にいえばどちらもありえます。
 
 
 けれども、個人的には、9条を改正してしまったら小国路線を進んでゆくのは現実的にみて、かなり難しいことになると思います。ここ数回ですで数度か触れましたが、ただでさえ軍事費が増大しつづけているこの状況のなかで、もしも正規の軍隊をもつということになれば、この傾向がますます加速してゆくことは避けられないのではないでしょうか。なにしろ、「中国の脅威」という大義が通ってしまう可能性が高いわけですから、下手をすると、防衛にかんしては予算が制限なしに近いかたちで通りつづけるということになってしまいかねません。
 
 
 ここのところ数回の記事で提示させていただいた選択肢は、「9条のような条文は、もともとその理念を完全に守ることができるようなものではないということを納得したうえで、できるかぎりその理念から離れることを食いとめつづける」というものでした。そうなると、憲法の条文への信頼が失われるという問題はもちろん出てきますが、「9条は独特な領域だから、ここには下手に手をつけないほうがいいのだ。これを失ってしまったら、軍事大国路線に進むことは避けにくいのだから」というコンセンサスを作っておくならば、納得もしやすくなるはずです。実をいえば、このコンセンサスはここ70年の歴史の流れによって、すでにかなりの部分はできあがっています。
 
 
 これから先に9条を守ってゆきたいという場合には、独特のリアリズムが必要になってくるように思います。これまでのところは、平和主義というイデーだけでもこの条文を守ってゆくのに十分でした。けれども、これからはおそらく、「9条をなくすなら、理性的にみてもまずいことが起こる」というロジックを用いなければ、この条文を守ることができない時代がやってきます。9条を守ろうとする人にとっては、こののちには、さまざまな立場の人と対話の機会を積みかさねていって、防衛や軍事戦略についても、できるかぎり勉強してゆく必要が増してきます。そのうえで、「9条を守りつづけても、国の安全を確保する道はある。9条を守らないならば、国はかえって危険になる」というロジックを対話の相手に納得してもらうことができるなら、9条の弁護はうまくいったということになるでしょう。
 
 
9条
 
 
 9条の弁護がここ数回の記事のテーマでしたが、ここからは、少しだけそのテーマから外れることにさせてください。僕個人としては、「9条を守っていったほうが、この国の安全のためにもよいはずだ」というスタンスですが、そのことについての確信があるわけではありません。これからも、できるだけ多くの人と話し合って、このトピックについて考えつづけてゆきたいと思っています。けれども、それとは別に、9条を守るという立場を取らない人とも共有できる可能性が高いのではないかと思う立場があります。それは、「この国は、これから先も核兵器を持つべきではない」というものです。
 
 
 国を動かしている人たちの本音としては、「いずれ核兵器を持たなければならない」と思うのはある程度は避けられないと思いますし、国益というタームで考えるかぎり、つねにその選択肢が脳裏にちらついてきてしまうことは確かです。そのため、僕は、「この国は核兵器を持つべきだ」と政治家の方たちが考えることがあるとしても、頭ごなしに批判する気にはあまりなれません。防衛を担わなければならない立場にいる人たちにはとくに、その必要性がふつうの人たちよりもつよく感じられることでしょう。
 
 
 けれども、たとえそうだとしても、核兵器を持つことは、まず確実にこの国のためにならないと思います。そして、それを持ってしまうという未来については、この国の人びとの声の力によって十分に防ぐことができるのではないでしょうか。唯一の被爆国であるということの記憶は、まだ根づよく私たちの心のなかに残っています。
 
 
 たとえば、かつて週刊少年ジャンプ誌上で連載された『はだしのゲン』のような作品は、原爆を直接には知らない世代の私たちにも、とても広く知られています。あの作品によって小さいころにトラウマのような深い衝撃を受けたという人は今でもとても多いのだと、今回まわりの人たちに聞いてみて、改めて思わされました。このマンガのケースはほんの一例にすぎませんが、ひとりひとりの人間のあいだには、核兵器というものは人間にたいして言いようのない悲惨をもたらすのだというメッセージが、今もつよく受けつがれているといえるように思います。
 
 
 これからの数十年のあいだには、「核兵器を持たないという意志を国民が持ちづけていられるかどうか、その意志にもとづいて、国家に核兵器を持たせないでいられるかどうか」 ということが、私たちが平和に暮らしつづけられるかどうかの一つの焦点になる日がやってくる可能性は、けっして否定できないと思います。防衛の問題がより深刻になってくることは、間違いないでしょう。ただ、最悪の場合にも、自前の核兵器を持つことさえなければ、決定的な緊張と、万一の場合のカタストロフだけは避けうるのではないかと思います。
 
 
 私たちはすでに先の記事のなかで、国家理性について学んできました。国家理性は、私たちが思っているよりもはるかに周到に、国益を追いもとめつづけます。今のところはまだ実現されていませんが、核兵器を持とうという動きは、戦後70年のあいだにも、つねにこの国の政治家たちの中にくり返し生まれてきました。中国との緊張が高まってゆくこれからは、かつてない勢いをもってその動きが強まってゆくことが予想されます。国際情勢にかんする今日の常識は、10年前からは想像がつきませんでした。核兵器についても、10年後に世論の色合いが今日と同じであるとはかぎりません。
 
 
 けれども、状況はまだ今のところは大丈夫だと思います。この状態を維持しつづけてゆくためには、何よりも、ふだんの日々の生活のなかで時おり平和についてゆっくり考えておく必要がありそうです。
 
 
9条
 
 
 身近なところで行えることは、とても多いのではないでしょうか。たとえば、「『はだしのゲン』をもっと世の中に広げさえすればいいのだ」とまでは言えませんが、色々と論争の余地のある部分はあるにせよ、『はだしのゲン』が記念碑的作品であることは確かだと思います!子供たちにあのマンガを勧める人というのは、なんだかとても怪しい人のようにも見えますが……。けれども、話はこのマンガにかぎりません。ときどき戦争と平和について身近な人と話してみたり、マンガや映画、ゲームなどに本気で感動して泣いたりすることは、きっと平和な世界を創りあげることにつながっているはずです。ひとりひとりの心のなかで行われる問いかけが、国の未来を決めてゆくことになるでしょう。
 
 
 最後のところで話がすこし外れてしまいましたが、ここまでで、リアリスティックな観点からの9条の弁護は終わりです。不十分ではあるかと思いますが、今回までの記事で、現実的な対応策について語る義務は、いちおう果たしたと信じます。あとは、目の前の現実にたいしていっさい妥協したりせずに、世界がどうであったとしてもけっして消えることのない、9条の理念と永遠平和について考えてみたいと思います。
 
 
 
 
 
核兵器については、私たちの国が現実には核の傘のうちに入っているという事実を無視することはできません。記事のさいには、リアリスティックな観点から9条の弁護を行うために、すでに述べたようなかたちで論を進めさせていただきましたが、本音をいうならば、個人的には「核の傘から外れてもいいから、この国は核兵器の廃絶を本気でめざすべきなのではないか」と考える部分もあります。ただし、そのことをじっさいに国のレベルで実現してゆくのが、今のところ絶望的なほどまでに難しいことも事実なので、自分の中でも立場が揺れています。この点についても、これから考えつづけてゆきたいと思います。
 
  今回を含めたここ三回の記事では、正直にいって、書く前にはもっと夢のある未来を想像できるはずだと思っていたのですが、国際政治の現実のなかで取りうる選択肢があまりにも少ないことに、打ちのめされてしまいました……。平和を第一に優先して考えるならば9条を守るのがベストなのではないかという考えについては今のところ変わりませんが、他の立場もありうると思います。もし何かもっとよい案や考えなどがありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです。
 
  最後に、今日は8月9日です。ここ数回の記事で広島や長崎のことをしっかりと踏まえたうえで考えられたのかどうか、あまり自信はありませんが、70年前の出来事のことを、これからの未来を築きあげてゆくさいには忘れないようにしたいと思います。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)