イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

死の欲動と芸術の真理

 
 先週の記事ではいくつかのアート作品について論じてみましたが、それらの作品はみな、多かれ少なかれ、死や暴力を取りあつかっているものでした。今日はこの点について、もう少し踏みこんで考えてみることにしたいと思います。
 
 
 芸術家が美を追いもとめるとき、道徳法則を踏みこえてしまう瞬間に襲われることがあります。このことはおそらく、たんなる偶然によってそうなるのではありません。芸術家と呼ばれる人たちはふだん、普通の人たちよりも生と死の根源にずっと近いところで仕事をしています。そのために彼らは、リアリティーの根源から人間を保護する役割を果たしている道徳法則が、自分の心の中でその働きを停止してしまう危険に常にさらされているといえます。
 
 
 精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトは、つぎのように考えました。生の欲動であるエロスは、より根底的なところで、死の欲動であるタナトスに支えられている。おそらく、死の欲動のようなものが人間のなかに存在しているなんて、おとぎ話でしかないのではないかと考える人も数多くいることだろう。けれども、どうも人間の心のエコノミーは、このタナトスの次元を考えに入れなければ説明がつかないように見えるというのも事実なのだ。じつはフロイトは、精神分析を創始した当初の頃からこのように考えていたわけではなかったのですが、心の専門家としての経験を積みあげ、さまざまな変遷を経たのちに、このような考え方に到達しました。
 
 
 タナトスの次元はふだん、目には見えないヴェールによって、私たちからは注意ぶかく隠されていますが、芸術は、どんな障害をもものともせずにこの覆いを取りのぞくことを、みずからの主要な務めの一つとしています。人間が自分でも見たくないと思っているもの、けれども、本当は無意識の深いところで切望しているもののもとへ、何ものをも恐れずに突きすすんでゆくこと。芸術がこうした務めを持っているからこそ、私たちは、「芸術は何よりもまず、真理にかかわる」と言わなければならなくなってきます。
 
 
 
死の欲動
鴨居玲 『1982年 私』)
 
 
 
 哲学や科学と同じように、芸術は真理にかかわります。概念や数字を用いないからといって、芸術の探求は哲学や科学よりも真剣なものではないと考えるのは、おそらく事態を見誤ることになってしまうでしょう。芸術のうちには、芸術に特有の厳密さがあります。音楽家にとっての音符は、科学者にとっての数式と同じくらいに、自分勝手にいじったりすることはけっして許されないものです。
 
 
 アートであろうとエンターテインメントであろうと、私たちが映画や音楽のうちに求めているものは、おそらく、私たちが自分の仕事のうちに求めるものと同じくらいに真面目なものであるといえるのではないでしょうか。スクリーンのなかで恐竜が人間たちに襲いかかるのを見るときや、ヤクザたちが怒号を飛ばしあう光景に圧倒されるとき、そして、ヘッドフォンの中で鳴る音楽に魅惑されるときに、人間が求めているものは、たんなる興奮ではない。間違っても、彼は楽しみだけを求めているのだなどと言ってはいけない。彼は何よりもまず、彼自身の真理を求めているのだから。
 
 
 だからといって、「芸術のなかでは全てが許されるのだ」と言ってよいということにはならないことは、言うまでもありません。芸術と倫理はこれまで、ときに鋭く剣を向けあいつづけてきましたが、こうしたことがはらんでいる問題の存在に一番よく気づいていたのはもちろん、当の芸術家たち本人であったように思われます。死の欲動と倫理とは、どのようなかかわりを持っているのでしょうか。これから、この問題についてもう少し深く考えてみるために、具体的なケースを見てみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
[ブログを始めてから3ヶ月間になるので、はてなProにするとともに、読みやすいようにフォントを少し大きくしてみました。いつも読んでくださって、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします!]
 
 
 
(Photo from Tumblr)