イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2015年9月、いま、言論の状況は?

 
 気がつくと、9月ももう7日です。集団的自衛権の行使をめぐる案件が、いよいよ大詰めに入ろうとしています。インターネット上でもさまざまな意見が交わされていますが、このブログにおいても、これから数回をかけて、今のこの国の状況について考えてみることにしたいと思います。
 
 
 まずは、身近な例から話を始めてみることにします。先日、友人から、こんな話を聞きました。その友人のお母さんは、ふだんは政治にほとんど興味をもっていないのですが、8月30日のデモが盛りあがっていたということを聞いて、しばらくのあいだ黙ったのちに、「そうなの。それなら、行けばよかったかしら」と言ったそうです。そのお母さんは友人と一緒に、こののちに行われるデモにゆくかどうか、いま考えているところとのことです。このことは一つの例にすぎませんが、このエピソードは、今のこの国の状況を象徴的に表しているとはいえないでしょうか。
 
 
 日本国憲法第9条の解釈にかかわるこの問題が、国のあり方に大きくかかわっているということは、おそらく、表面に出てくるよりもずっと多くの人のあいだに、なんとなく予感されています。そして、「このまま安保法案が通ってしまっていいのだろうか」という漠然とした思いを抱いている人の数は、けっして少なくないのではないでしょうか。重要なのは、このように感じている人が、ふだんは政治のことに興味をもっていない人のなかに数多くいるという事実だと思います。
 
 
 最初に書いておくと、僕は今の政権が行っていることのすべてに反対というわけではありませんが、安保法案にかんしては、少なくともこのままの状態でそれが通ってしまうのは、この国にとってよいことをもたらさないのではないかと考えています。けれども、ここで問題にしてみたいのは、そのこと自体ではありません。僕は、集団的自衛権が必要だと考える側の立場も根拠のあるものだと思うので、少なくとも、このブログの中ではその点について論じることはしないつもりでいます。その代わりに論じてみたいのは、今のこの国の言論をめぐる状況についてです。
 
 

言論

 
 
 テレビや新聞といったマスメディアが、安保法案にかんする話題について取りあげることがあまりにも少ないことが、この件にかんする最も重大な問題のひとつなのではないでしょうか。たとえば、集団的自衛権の行使容認に反対して行われた8月30日のデモが、アメリカのCNNの報道においてはトップ扱いだったことは、インターネット上ではすでによく知られた事実になっています。アメリカにかぎらず、イギリスや中国といった国についても、このデモにかんしては小さくない注意を払っていました。それにたいして、日本のマスメディアにおいては、自国の問題であるにもかかわらず、この出来事が大きく取りあげられることは少なかったといえるように思います。
 
 
 現実を見えないものにする力が、強く働いているということ。僕は、現政権だけではなく、マスメディアについても、すべてが悪いとはまったく思いません。さまざまな問題はあるかと思いますが、今のこの国をよいものにしてくれているのは、この国を動かしている人びとによるところが大きいということも、忘れてはならないと考えています。
 
 
 けれども、話しあったり、考えたりすることを押さえてしまうのは、誰にとってもよいものをもたらさないのではないか。すこし話は変わりますが、僕は、人文知の世界がいま危機に立たされているのも、これと同じ問題が大きくかかわっているのではないかと考えています。パブリックな議論を行うための場が十分ではないことが、この問題をよい方向に向かわせることをきわめて難しいものにしているのではないか。このことは一例にすぎませんが、2015年はこの国の多くの人にとって、個人を超えたところで考えることの必要性が痛感される年になりそうです。
 
 
 このブログでは昨日まで、橋本環奈ちゃんのCMの分析を行っていました。何も気にせずにメンソレータムカンナちゃんについて楽しく語れるということがとても大切なことであるのは、言うまでもありません!けれども、こうしたことについて楽しく語ることのできる世界を保ってゆくためには、世界そのもののメンテナンスを少しずつ行ってゆかなくてはならないということも確かです。そのためには、政権やマスメディアだけではなく、私たちの一人一人もできるところで協力してゆく必要がある。さまざまな局面で反対の立場に身を置くことがあるにしても、この国をよいものにしたいという気持ちにおいては、どの立場の人も同じなのではないかと思います。
 
 
 55年体制と呼ばれるレジームが、少なくとも前と同じかたちでは保たれないことが明らかになっている今の状況においては、私たちは、個人を超えたところにある公共の領域にたいする、新たなかかわり方を見つけだすことを求められています。その一方で、この国には、使えるリソースもたくさんあるし、築きあげてきた伝統もあります。この国なりのデモクラシーの次の時代のあり方を見つけだすことが、私たちに課せられた大きな課題の一つであるといえるかもしれません。
 
 
 集団的自衛権の問題そのものもとても大事なものですが、これから先は、この問題を念頭に置きつつも、今のこの国の言論の状況一般について、もう少し踏みこんで考えてみたい。せっかくのこの機会を、パブリックの領域について考えるチャンスにして、21世紀のこの国のあるべき姿を思い描いてみることにしたいと思います。
 
 
 最後に、途中で引きあいに出した橋本環奈ちゃんは一つの例にすぎないので、「橋本環奈ちゃんは、この国の未来にとって絶対に必要だ!」と主張しているわけではないことをお断りさせていただきます。メンソレータムカンナちゃんについては、一見の価値ありだとは思いますが……何はともあれ、次回から本題に入ってゆくことにします!
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)