自らの理性を用いて考えること、そして、自分が考えたことをすべての人びとに向けて発表すること。イマヌエル・カントが『啓蒙とは何か』において「理性の公的な使用」と呼んだ行為は、インターネットの出現によって、今や誰にでも実行可能なものになりました。このことは、私たちにとっては当たり前のことになっていますが、前の時代の人たちから見るときわめて驚くべきことであるといえるように思います。
今日の記事ではカントのこの論文についてもう少しだけ掘りさげたうえで、この点について考えてみることにしましょう。カントは『啓蒙とは何か』のなかで、次のような意味のことを言っています。「もしも人間たちが集まって、次の世代の人びとにたいして啓蒙を進めてゆくことを禁じたとしたら、それは許されないことである。それは、人間性にたいする犯罪である。」
「人間性にたいする犯罪」。これだけ聞くと、そこまで言ってしまうのかという感じもします。「理性の公的な使用」を禁じることが明らかによくないことであることはすぐにわかりますが、この言葉に含まれているニュアンスは、なかなか激しいものであるといわざるをえません……。実感をともなって理解するためにも、ここは具体例をあげて考えてみることにします。
僕はこの5月にこの『イデアの昼と夜』を始めて以来、はてなブログにはとてもお世話になっていますが、このはてなブログを始めとするあらゆるブログの発表行為が、国によってある日禁止されてしまったらどうでしょう?「はてなブログだろうとはてなダイアリーだろうと、アメーバだろうとライブドアだろうと、すべて禁止とする。個人が考えたことを自由に発表できるブログは、この国にとって有害なものだ。この国の文化の中から、ブログを完全に抹消するのだ。」
もしそんなことがあるとしたら、それはさすがにひどすぎるのではないかという気がします。けれども、罰されて捕まってしまっては元も子もないので、僕もブログはあきらめて、泣く泣くツイッターに難民として逃げてゆくことになるかもしれません。はてなブログで知り合いになった方たちも、みなツイッターに逃れてきています。「ああ、あなたも祖国を追われてきたんですね……!」140字の世界だけになってしまうとちょっと窮屈なところもありますが、仕方ないので、もうこれでやってゆくしかありません。
日々が過ぎてゆくにつれて、しだいにツイッターのみの生活にも慣れてきました。140字に適応するのも次第に困難ではなくなり、はてなブログという祖国を失った心の傷も、完全に消えたわけではないですが、少しずつ癒えつつあります。「このままツイッターに骨を埋めるとしても、悔いはないかもしれないな。」はてなブログにはなんだか後ろめたい気もするけれど、そんな想いさえ胸をよぎることもあります。
けれども、そんなある日、ツイッターをはじめとするSNSまで、全面的に禁止されてしまったとしたら?そこまで来ると、もう我慢できません。こんなことがあっていいものか。それはもはや、人間性にたいする犯罪です!
(写真は、若き日のイマヌエル・カント。すこし美化されすぎている気もします……。)
自分で考えはじめた例とはいえ、自由にブログを書くことのできる今の時代のありがたさを、改めて噛みしめさせられました。同時に、現代のブログ文化が、じつは深いところで啓蒙のプロセスに通じていることも見えてきたように思います。
みずからの理性を用いて考えたことを、不特定多数の読者にむけて自由に公表すること。すでに見たことのくり返しになりますが、カントはこうした行為の集積こそが、人類全体をよくしてゆくのだと言っています。「人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。」人間とは、みなで理性を用いて世の中を少しずつ改善してゆく存在なのだという、明快でありながらどこまでも深いヴィジョンが、ここにはあります。
たしかに、ブログを書くときにはみな、理性の光をこの世のうちに行き渡らせようとは、あまり考えてはいないかもしれません。けれども、あるトピックについて記事を書くことには、思考の働きが必ず伴っている。ブログの記事の中には、プロの作家も顔負けというくらいに笑えるものがたくさんありますが、ユーモアがとても高度な知性の働きに支えられていることは、言うまでもありません。表現の自由は、深いところで理性の働きを高めることにつながっているということなのだと思います。
政治や文化、エンターテインメントやおいしい食べ物。たとえどんなトピックについて書くにしても、それは人類の文化を少しずつ底上げしてゆくことにつながっている。一つの記事を書いたり読んだりするごとに、人類をみちびく理性の光がごくわずかにではあれ輝きを増していると考えると、ブログにかかわることもより一層楽しくなってくるのではないでしょうか。ブログ文化は、すべての人が自分の理性を用いる時代にむかって、控えめながらも着実な歩みを進めるものであるといえそうです。
ブログにかぎらず、今日ではきわめて多くの人が、何らかのかたちで毎日のように情報を発信しています。言論の世界の未来を考えるうえでは、このことこそが一番の手がかりになってくるのではないか。カントのおかげで進むべき方向性が見えてきたので、この路線にそって、もう少し今の言論の状況を広く眺めてみることにしましょう。
(つづく)
[ツイッターはツイッターで、140字という制限された字数のなかで表現を追求する独自の魅力があるので、今回の記事で挙げた例は、ブログの方がツイッターよりもよいものだということを意味するものではないことを、ここに追記しておくことにします。ブログにしろツイッターにしろ、手放しで褒めたたえるわけにはゆかないのはもちろんですが、こうしたものは、長い目でみると確実に言論と社会のあり方を変えてゆくものになるでしょう。なお、今日の記事で書いたことについては「ブログが哲学の歴史をつくる?」という記事と重なる内容を扱っているので、興味のある方はご覧いただけると幸いです。]
(Photo from Tumblr)