イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

書評:國分功一郎『近代政治哲学 ー自然・主権・行政』について

 
 読書の秋なので、最近読んだ本のことを取りあげてみることにします。今年の4月に出た、國分功一郎さんの『近代政治哲学   ー自然・主権・行政』(ちくま新書)は、とても勉強になりました。著者の國分功一郎さんは、今この国のなかで最も注目されている哲学者の一人でもあるので、今日の記事ではこの本を紹介したいと思います。
 
 
 まず、この本は近代政治哲学の入門書として、とても効率のよい学習ツールになっています。ジャン・ボダンからホッブズをへて、スピノザ、ロックからルソーへ……。これら近代の思想家たちは、私たちが生きているこの民主主義社会のフォーマットについて、根本的なところから考えた人たちです。政治の問題について考えるなら、これらの思想家たちが主張していることに耳を傾けるのは、今の時代においてもとても役に立つことであるといえます。
 
 
 その点からすると、何といっても、思想家一人につきたった30ページほどでわかりやすく読めてしまうこの本は、とてつもないお得感にあふれています!さらには、デイヴィッド・ヒュームによる社会契約論の批判や、イマヌエル・カントによる歴史への考察などいったサブトピックも取り扱われており、近代政治哲学については、とりあえず、はじめはこの本さえあれば……という感すらも漂っています。けれども、この本のメリットはそれに尽きません。論点はさまざまですが、ここでは二点に分けて論じてみたいと思います。
 
 
 
1. 今の日本の哲学者が、過去の思想家たちといきいきと対話するのを見ることができる
 
 
 入門書や概説というと、そつなく思想を要約するのが普通ですが、この本は大哲学者たちの思想にも、要所要所でズバっと切りこんでゆきます。たとえば、第2章では「自然権を放棄する」というホッブズの表現について、ホッブズ本人の議論を踏みこえるかたちで検討していますし、第5章ではルソーの一般意志という概念について、憲法の問題などと絡めながら独自の解釈を加えています。
 
 
 大思想家たちが発するオーラに気押されずに、彼らの議論について、時にははっきりと異議を申し立てつつ分かりやすく論じることのできる人はなかなかいないので、読んでいて、とてもすっきりした気分にさせられます。とくに、〈設立するコモン-ウェルス〉と〈獲得によるコモン-ウェルス〉という概念の対を軸にしてホッブズの社会契約論を読みとく第2章と、ジョン・ロックの自然状態論を「近代社会の建前」として読みとく第4章は、僕のなかで長年のあいだもやもやとしていたものを、ぱっと取りはらってくれました。
 
 
フェルメール 國分功一郎 近代政治哲学
 
 
 
2. 現代の問題に鋭く対峙しながら書かれている
 
 
 さて、この本の最もよいところは、近代政治哲学への入門書でありながら、近代の政治思想のうちにはらまれていた理論的な死角を指摘しつつ、現代の課題を述べてくれているところです。
 
 
 この本のなかで國分さんは、とても重要な論点を二つ指摘しています。まず一つ目は、生まれつつある近代国家は、自然権というモンスターを飼い慣らさなければならなかったということ。16世紀と17世紀のヨーロッパでは、宗教的な対立をきっかけにして、いたるところで内戦が巻き起こりましたが、そうした事態とも密接に連関しつつ、自然権という概念が浮上してきます。
 
 
 法律や社会がまったく存在しない状態における人間は、いったいどのような存在なのだろうか。自然権という概念は、そうしたある種の限界状況を考えるためのツールとして登場しました。確かに、私たちが生きている近代社会はとても理性的で秩序だったものであるように見えるけれども、その裏側にはつねに、人間が抱えこんでいるむき出しのリアルがべったりと貼りついているのかもしれない。ホッブズやロック、ルソーといった思想家たちの議論から透けて見えてくるのは、私たちがふだん無意識のうちに思考の外側へ追いやっている、私たち自身の姿です。國分さんの『近代政治哲学』は、私たち自身のうちに宿っている「野生動物」のイメージを、哲学者たちの残したページの中から立ちのぼらせることに成功しています。
 
 
 ひょっとすると、この本のタイトルは『スピノザからみた近代政治哲学』でもありえたかもしれません。ホッブズやロックにおける自然状態論にたいする國分さんの鋭い分析は、スピノザ哲学の読みこみに深く裏打ちされて出てきたものであるように思えるからです。近代政治哲学におけるスピノザの貢献は、他の思想家たちに比べてなかなかクリアーに見えにくいところがあるように思いますが、スピノジスムの徹底にもとづいてホッブズやロックの思想を読みといているこの本は、この哲学者のイデーがはらんでいる重要性を、新たな側面から照らしだしています。アントニオ・ネグリの『野生のアノマリー』などと合わせて、現代のスピノザ政治思想研究の最前線の一端を見せていただいたという印象があります。
 
 
スピノザ 國分功一郎 近代政治哲学
 
 
 二つ目の論点は、自然状態との鋭い緊張のなかで生まれてきた近代国家は、たしかに国家の内側における秩序の創設には成功したけれども、行政機関という別の難物を抱えこむことになったということです。國分さんはこの本の終わりで、自然権を野生動物と呼ぶことができるなら、行政のことは機械とでも呼ぶことができるのではないかとコメントしつつ、近代国家が原理的に直面せざるをえない困難にかんして、オリジナルな議論を展開しています。
 
 
 近代国家は自然権を飼い鳴らすために、法律を最大の武器にしました。そのため、近代の政治思想のなかで、主権は何よりもまず、立法権にかかわるものとして思考されるようになりました。法律は自然状態に対抗して、社会のなかに秩序を創設します。しかし、言うまでもなく、じっさいの社会は法律だけでは動いてゆきません。国家の原理を決める立法の領域だけではなく、国家を運営してゆく行政の領域がなければ国が成り立たないのは、いうまでもないでしょう。
 
 
 こうして、近代国家は自然状態のかわりに行政機関を抱えこむことになりましたが、國分さんは、近代の政治思想はこのことがもたらす困難をすべて解決することはできなかったのではないかと、私たちに向かって問いかけます。立法権にフォーカスしている近代政治思想にとっては、行政機関の存在が、ある種の理論的な死角になってしまっているのではないか。そして、このことは現代にいたるまで、少なからぬ問題を引き起こしつづけてきたのではないか。
 
 
 問題の要点はつまるところ、現在の近代国家の仕組みのままでは、「主権者であるはずの私たちが、強大な権限をもつ行政機関にたいしてなすすべをもたない」という場面が必然的に生みだされてしまうところにあります。國分さんは、スピノザやルソー、カントといった人たちが、実はこのアポリアにたいする鋭敏な感覚を持っていたことを指摘していますが、それでも、問題のすべてが解決されたわけではありません。主権と立法のあいだだけでなく、主権と行政のあいだをつなぐ回路を、どのように構築してゆくことができるか。ここに今の民主主義が抱えている大きな課題があるというのが、『近代政治哲学』の結論です。
 
 
 國分功一郎さんの他の本の読者は、こうした問いかけが、小平市都道328号線問題をはじめとする國分さん自身のコミットメントと深く結びついていることに気づくことでしょう。この本のなかで行われている議論は、哲学の理論的な問題にかかわるとともに、私たちの社会が今まさに抱えている問題にも深くつながっています。
 
 
 今回の安保法案の問題や、法学部の友人との会話などをとおして痛感しているのは、今のこの国には、国家や憲法、議会や民主主義などといった根源的なカテゴリーをもう一度考えなおすことが求められているということです。デモクラシーにたいする熱気が国のなかでにわかに高まっていますが、こうした高揚を一時的なものにとどめずに、その後の社会のあり方のうちにじっくりと根づかせてゆくことが、いま求められているといってもいいかもしれません。その観点からみても、國分功一郎さんの『近代政治哲学』は、この国の政治について考えたいすべての人におすすめの一冊であるといえそうです!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[この記事は、Twitter上で、この本の著者である國分功一郎さんにご紹介いただきました。本当にありがとうございました!]
 
 
 
(Photo from Tumblr)