イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

猫と裸のジャック・デリダ   ー『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』を読む

 
 猫について考えるきっかけとして、レヴィ=ストロースにつづいて、もう一人のフランス人に登場してもらうことにしましょう。近年惜しくも亡くなった、哲学者のジャック・デリダの講演集『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(鵜飼哲訳、筑摩書房、2014年)から、飼い猫とのあいだに起こったある出来事についてデリダが語っている部分を取りあげてみたいと思います。
 
 
 ジャック・デリダは、哲学を学んでいる人のあいだではとても有名な哲学者ですが、一般にはそれほど知られていないかもしれません。彼の哲学は、脱構築というキーワードによってよく知られています。脱構築とは、ごく簡単にいうと、有名な哲学や文学のテキストの中に入りこんで、その中の言葉づかいに細心にこだわりつつ、自由自在にさまざまな箇所を横断しながら考えるという技法です。哲学史やヨーロッパ文化について、かなりの知識を持っていないと読むのがきついので、マニアックな人向けの哲学であるといえます。
 
 
 しかし、このデリダは、とてもマニアックな思考を展開しているぶん、一度この人にとらわれてしまうとぞっこんに惚れこんでしまうという、妖しい魅力を放っている人でもあります。私たちの今回の目的は、脱構築の哲学について深く考えぬくことではなく、あくまでもニャンニャンちゃんの秘密に迫ることなので、なるべくわかりやすい部分を取りあげることにします。今から、デリダの思考の迷宮をすこしだけ体験してみることにしましょう。
 
 
 今回取りあつかいたいのは、デリダが浴室で飼い猫に自分の裸を見られたことについて語っている箇所です。その箇所は、次のような表現から始まっています。
 
 
 「私はある恥じらいの運動を抑えるのに苦労する。(……)それは独自な、唯一無比の経験、動物の執拗なまなざしの前に、真に裸で現れることが持ちうる、あの不作法さの経験である。」
 
 
 浴室で、自分の裸の姿を猫に見られる。ちなみに、この猫の名前は、ルクレティウスちゃんというそうです(フランス語ではリュクレース)。こうした体験については、ふつうの人ならば「やっぱり、猫でも裸を見られると、なんだか恥ずかしいなぁ」で終わりですが、哲学者となると、そして特にジャック・デリダとなると、それだけで決して終わりはしません。ここから彼の思考のつぶやきが、どこまでも続いてゆくことになります。
 
 
 「動物の執拗なまなざし」。読みつづけてゆくと、執拗なのは、ルクレティウスちゃんというよりはどう見てもデリダ本人のほうであることが判明しますが、そのことは置いておくことにして、引用をつづけましょう。
 
 
 
ジャック・デリダ 猫 裸 動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある
(画像は、ジャック・デリダ
 
 
 
 「そのまなざしは、好意的なのか無慈悲なのか、驚いているのか感謝しているのか不明である。(……)それはあたかも、私が、そのとき、猫の前で、裸のまま恥じているかのようなのだ。しかしまた、恥じていることを恥じているかのようでもある。」
 
 
 全裸の姿を見て、猫は表情を変えません。ももたろうくんやウィルを見ていても感じることですが、そもそも、猫というものは、ごくわずかな場合をのぞいて、人間のように表情を変えることはないようです。それにしても、猫がデリダの全裸を見てまさか感謝しているということはないのではないかと思いますが、ここでなぜ感謝という言葉が用いられているのかは不明です。しかし、注目しておきたいのはむしろ、「恥じていることを恥じている」という表現のほうです。
 
 
 恥じることを恥じる。恥ずかしいと思う体験は、必ずわたしのイメージをともなっています。わたしに全く関係のないものが恥ずかしいということはありえません。そうなると、わたしが恥ずかしいと思ったとたんに、その恥ずかしいと思うわたしを恥ずかしいと思い、さらには、恥ずかしいと思うわたしを恥ずかしいと思うわたしを恥ずかしいと思い……といったように、恥の連鎖が無限に反射しつづけてゆくということにはならないでしょうか。じっさい、デリダはこの箇所につづいて、次のように言っています。
 
 
 「恥の反射、おのれ自身を恥じる恥の鏡、同時に鏡像的であり、正当化不可能であり、告白不可能であるような恥の。」
 
 
 フランス人の美徳の一つとして、「しゃべろうと思えばいくらでもしゃべりつづけることができる」という点を挙げることができるかと思います。わたしは全裸の姿を猫に見られた。しかし、振りかえって考えてみるならば、それはただ恥じているのではなく、恥じていることを恥じているのであり、恥の反射であり、おのれ自身を恥じる恥の鏡であり、さらには……。もしも、私たちの日本でこんな話し方をするとすれば、おそらくまわりの反応が極度に冷たいものになることは避けられないと思われます!
 
 
 しかし、これがフランスならばこのうえない尊敬の対象になるというのが、文化の違いの不思議です。要するに、「猫にハダカを見られて恥ずかしぃっ!」という言葉をひたすら言いなおしているだけであるとも言えますが、なんだかとても立派なことを言っている気もしてきます。さて、以上のようなことを踏まえたうえで、デリダは次のように問いかけます。
 
 
 「何が恥ずかしいのか?そして誰の前で裸なのか?なぜ恥が押し入るにまかせるのか?そしてなぜ、恥じることを赤面するあの恥なのか?」
 
 
 猫に裸を見られるとき、何が恥ずかしいのでしょうか?わたしの全裸を眺める猫とは、誰なのか?そして、猫に見られることを恥ずかしいと感じているわたしという存在は、いったい……?引きつづき、魅惑のデリダ・ラビリンスを探索してみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)