イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ニーチェに問いかける

 
 今回の機会を利用して、最近の自分の状況を踏まえつつ、デカルトだけではなく、ニーチェにも哲学上の疑問を投げかけておくことにします。紙面の都合上、大まかな構図を描くだけになってしまいますが、ご了承ください。
 
 
 19世紀ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェの思想は、ほとばしるような生の力の根源にまで迫ろうとするものでした。ニーチェは、どこまでも純粋で強烈な肯定のみからなる生のことを、ディオニュソス的という言葉で形容します。
 
 
 真にディオニュソス的な人間とは、それをくぐり抜けたのちに、「これが生というものか。よし、それならばもう一度!」と叫ぶことができるような人のことをいいます。ニーチェは、頭のなかでそのように考えただけではなく、じっさいに自分自身の生をそのような高みに押しあげようとして、ヨーロッパ各地を転々としながら、生涯をとおして自らの思想を断片のかたちで書きつけつづけました。
 
 
 ニーチェが書き残した断章からは、あふれんばかりの精神のエネルギーが伝わってきます。これほどテンションを高めてくれる文章を書ける人はほかにないというくらいで、だからこそ、ニーチェの書いたものは、今日でも世界じゅうの若者たちを惹きつけています。かくいう僕自身にとっても、『ツァラトゥストラはこう言った』や『善悪の彼岸』といった本から受けた恩恵は、はかり知れません。
 
 
 けれども、このニーチェの思想について、今の僕には、尊敬する部分と同じくらいに、疑問をさしはさみたい部分もあります。たとえば、ニーチェは、ディオニュソス的な生のあり方を全力で追いもとめるあまり、弱さというモメントを自分の思想から徹底的に排除してしまおうとしました。弱いものや人間たちのことを力をこめて糾弾するときのニーチェの口調は、じつに激烈です。
 
 
 事態はそれほど単純ではありませんが、あえて簡潔に表現してしまうならば、僕は、ニーチェのように弱さの次元を自分の人生から排除してしまおうとするならば、必ずどこかで無理がくるのではないかと考えています。その意味において、ニーチェの思想のうちには、ほとんど致命的といってもいいような危うさが存在しているといえるのではないでしょうか。
 
 
 
ニーチェ ディオニュソス的人間 ツァラトゥストラ 善悪の彼岸
 
 
 
 デカルトの「高邁の心」にしろ、ニーチェの「ディオニュソス的人間」にしろ、哲学という営みは、強くなりたいという欲望によって、宿命的なしかたで突き動かされているところがあります。哲学はよりよい生のあり方をめざすのだから、このことは、ある意味では当たり前のことであると言えるかもしれません。
 
 
 けれども、たとえそうであるとしても、人間という存在が避けがたいもろさを抱えているという事実から完全に目を背けてしまうと、手痛いしっぺ返しに会うのではないか。情けない話ではありますが、「一人前の哲学者として、何がなんでも、この世でたくましく生きぬいてみせる!」という僕のヴィジョンは、少なくとも一度は完全な崩壊を迎えました。もはや、今となっては言うのも悲しいですが、僕の人生は、こんなつもりではありませんでした!
 
 
 本題に戻ります。ふり返ってみると、当のニーチェ自身にしても、苦しみにつぐ苦しみの人生を送ったことでは、誰にも引けを取りませんでした。彼は、世間的な失敗、度重なる友人たちとの決裂、手ひどい失恋などの挫折にくわえて、あらゆる肉体的な苦痛にも悩まされたそうです。すさまじい頭痛、燃えるような高熱、耐えがたい全身の痛み、そして、強烈な眼精疲労……。ああ、眼の疲れとなると、僕にもけっして他人事とは思えません!
 
 
 「まずは、自分がどうしようもなく弱いことを認めよう。」今回のことを通して、少なくとも僕自身にとっては、弱さのモメントを自分の思想から排除してしまうことはできないのだと痛感しました。さて、こうしたコメントにたいして、当のニーチェだったらどう答えるでしょうか。言うまでもなく、いい返答はあまり期待できなさそうですが、いつか死後の世界などで彼に出会うことがあったら、ぜひ話しあってみたいところです。