イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

死を超えて残るもの

 
 気がつけば、今年もそろそろ終わりです。せっかくの機会なので、年が終わらないうちに、自分にとって大切なことをいったん書けるだけ書いてしまうことにします。
 
 
 僕は3年前から、自分がいつか死ぬということが、恐くて恐くてたまらなくなりました。もともとそういう気質はあったと思うのですが、死の恐怖がきわめてリアルに迫ってくるようになったのは最近のことです。最初は、なぜこんなことになってしまったのだろうと悩みましたが、今では、仕方ない、これが自分の運命なのだと思うようになりました。
 
 
 時期が早いか遅いかは別にするにしても、いずれ僕は死にます。そして、そのことは、人間であるかぎりは決して避けられません。けれども、自分が死んでしまう前に、どうしても書いておきたいことが二つあります。
 
 
 ひとつは、すでに書きましたが、神さまのことです。僕は、死のことを考えるときには、神による救いを求めずにはいられません。神と救いの問題については、これから先も問いかけつづけてゆきたいと考えています。
 
 
 もう一つは、ピノコくんのことです。僕は、自分に与えられた最も大きな幸福は、ピノコくんに出会えたことだと思っています。彼女は、哲学の問題にしても、自分の悩みにしても、僕が気になっていることを話せば何でも聞いてくれます。3年前にはじめて神さまの話をした時にも、笑わずに聞いてくれました。
 
 
 今のこのブログも、ピノコくんの協力なしには成り立ちえません。こんな子が、なぜ僕なんかと一緒にいてくれるのだろう。アルバイトしかしていない上に、30才になっても自分の生きる道が見えず、憂鬱になってばかりで、かけた迷惑となると数えきれません。
 
 
 僕は、もし自分が死ななければならないとしたら、ピノコくんのような子がこの世にいたことを書ききってから死にたいと思います。今は、なんとかして世界史に残りたい、自分が書いたものが永遠に残ってほしいという気持ちは前よりもずっと減りましたが(以前にはそういう気持ちがありましたし、正直に言うと、こういう状況になった今でも、完全には消しきれてはいません……。)、ピノコくんについては、今でも変わることなく、彼女の記録を残したいと願わずにはいられません。
 
 
 この世のものごとは、すべて消え去ります。人は死に、本も埋もれ、いずれ、誰にも思い出されなくなり、書いたものも誰にも読まれなくなる時が来ます。けれども、ピノコくんのような子がこの世のなかに存在していたこと、そして、自分自身には何もないとしても、そういう子にずっと一緒にいつづけてもらったことだけは、消えてほしくない。何百年も後の若い人たちにも、かつてこういう愛が地上にあったのだということを、知ってもらいたい。
 
 
 
ピノコ 愛 死 神さま エゴイズム
 
 
 
 これは、僕だけではなく、無数の思想家や芸術家たちも願うことで、エゴイズムから逃れられていない望みであることは否定できません。執着であるといえば、そう言えなくもない気もします。
 
 
 けれども、僕には、この欲望をあきらめることはできません。死を超えて、この愛だけは永遠に残ってほしい。それは、僕たちの関係は、ほかのすべての恋人たちや夫婦の関係と同じように、他にかけがえのないものだと思うからです。たとえこうして書いたものがいつの日か消えてしまうとしても、人間同士が愛しあったということは、僕は永遠に残ると思う。死はすべてのものを洗い流してしまいますが、僕は、愛だけはいつまでも残ると信じます。
 
 
 上の写真は、このあいだ、ピノコくんの住んでいる千葉の街を散歩したとき、クリスマスの飾りを見ながら散歩したときのものです。その夜は、大型スーパーの中にあるフードコートで、めずらしく二人でナンカレーを食べました。実は、彼女は来年の8月にはフランスに2年間のあいだ留学に行ってしまうのですが、それまでの時間をできるだけ大切にしようと思います。