イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「もう死んでいるはずなのに、なぜ」

 
 絶望についてもう一点、分析を加えておくことにします。
 
 
 去年の11月、いちばん辛かった時期のある日の午後、僕はピノコくんに会いにゆくために、渋谷から駒場にある大学まで、歩いていました。その時、次のような思考が、ふと頭に浮かんできました。
 
 
 「自分はもう死んでいるのに、なぜこうして道を歩いているのだろう。」
 
 
 それは、苦しくてそう考えたというよりも、純粋な疑問に近いものでした。もう、とっくにこの世を去ったはずなのに、なぜこんなところにいるのだろう。と同時に、「これはまずい。このままだと、文字どおりあの世に行ってしまう」と思ったのを覚えています。
 
 
 絶望の体験は言うまでもなく、死に近づく体験です。けれども、そこからもう一歩踏みこんで、「絶望がそのエッジにゆきつくときには、ひとは本当に死んでいる」ということができるように思います。
 
 
 人間には、心のなかであの世にゆくということがありうるのではないか。無意識の心のなかには、死者たちが住む領域が存在しています。「絶望の体験とは、あの世の側からこの世界を見る体験である。」とりあえずのところは、このように表現することができそうです。
 
 
 
絶望 死 哲学
 
 
 
 僕にはその体験はありませんが、今では、リストカットなどの自傷行為をする人の気持ちが、少しだけわかるような気がしています。そのような人たちの多くが、自分には生きている感覚がないのだと言っています。ひょっとすると、彼らは無意識の心のなかで、あの世をさまよっているのかもしれません。
 
 
 こうした絶望の分析は、哲学的にはきわめて重要な帰結をはらんでいます。人間の体験を本当に知るためには、あの世という概念を哲学的思考のうちに持ちこまなければならないということだからです。「地上の生について知るためには、陰府についても知らなければならない。」今日は、これを結論にしておくことにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
ツイッターの方にはすでに書きましたが、ここ数日、哲学の言葉で語るということにたいして、迷いを感じるようになってしまいました。この点については、次回からの記事で書こうと思います。]