イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神の問いは哲学に属する

 ところで、神の問いについては、次のように言う人もいるかもしれません。すなわち、「哲学は人間が知りうることだけを論ずるべきであって、神などという、いるかいないかわからない存在にかかわるべきではない。」
 
 
 このような態度は、とりわけ現代の哲学のうちに典型的に見られるものです。けれども、哲学を「生きることのよさについて考えること」と捉えるならば、事情は違ってくるのではないか。
 
 
 神が存在するかどうか、そして、神が私たちのひとりひとりを愛しているかどうかは、この世界そのもののあり方を左右する重要な問題であると思われます。そして、神による死後の救いがあるとするならば、おそらく、人間の生き方も今までとは違ってくるのではないでしょうか。
 
 
 したがって、神の問いは、正当な意味で哲学の営みに属するものであるといえそうです。それどころか、いささか野心的な言い方をするならば、「生きることのよさを本当に追いもとめたいならば、神の存在について考えることが必要である」とさえ言えるかもしれません。
 
 
 
哲学 神 現象学 神学 問い
 
 
 
 この点については、近代の、とりわけカント以降の哲学史を詳しくたどっておく必要がありそうです。そのことはまたの機会に譲るとして、ここで大まかにいうと、およそ19世紀の後半から20世紀にかけて、哲学について神について論じることは、きわめて難しくなってしまいました。
 
 
 けれども、現代が力をつくして排除しつづけてきた問いを、もう一度しっかりと取りあげなおす必要があるのではないか。僕は、「現象学の神学的展開」と呼ばれる事態の展開や、近年のイタリア思想などといったさまざまな時代の流れを横目に見つつ、いまや、神の存在について大胆かつダイレクトに問うべきときが来ているのではないかと考えています。
 
 
 哲学が神の問いについて追いもとめるとき、今まで思考が神学の領域のうちに必死になって押しこめておこうとしていたものが、哲学のうちに一気に流入してきます。
 
 
 そのとき、この世とあの世のあいだにそびえ立っていた壁は崩れさり、思考は、ふたたびこの世を超えるものについて問うことを迫られるのではないか。神の問いは、哲学の営みのあり方そのものに大きな問題を投げかけるものであるといえそうです。