イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神との戦争状態について

 
 青梗菜さんという方からのコメントのおかげでインスピレーションを得たので、少し議論を補足しておくことにします。
 
 
 哲学という営みは通常の場合、神という存在のことを考えたがりません。それは哲学に、エゴイズムの傾向が深い意味においてはらまれているからです。
 
 
 哲学はこう言います。「存在するもの、それは、わたしが考えることのできるものだけだ!」哲学にとっては、思考しつくすことのできないもの、それどころか、存在することを証明することさえできないものは、厄介者でしかありません。
 
 
 したがって、哲学は、できることならば、すべてのことを神なしで済まそうとすることでしょう。そして、わずかな例外を除くならば、それが実際の哲学の歴史のなかで起きたことでした。
 
 
 これは、神との戦争状態とでも呼ぶべき事態です。とくに19世紀になって以降は、この戦争状態は誰の目にも明らかなものとなり、「神は死んだ」というニュース(誤報の可能性大)が大っぴらに語られることにもなりました。
 
 
 今日、哲学は、神のことを排除することにほぼ完全に成功したかに見えます。たとえば、すでにいくぶんか論じましたが、ジル・ドゥルーズの内在の哲学などは、哲学のうちにもともとはらまれている「深いエゴイズム」の回路を、どこまでも徹底させたものであるといえそうです。
 
 
 
神 戦争状態 哲学 思考 深いエゴイズム
 
 
 
 哲学は、神の問いを追いもとめようとするならば、神との戦争状態を一刻も早く終わらせなければなりません。そのためには、これまで行われてきた戦争についてきちんとふり返っておく必要があることは、いうまでもありません。哲学史を一から見なおす必要がありそうです。
 
 
 ところで、神が思考を無限にあふれ出すということについては、以前の記事で「絶対的外部性」という概念を提案しました。哲学がもっている深いエゴイズムは、この絶対的外部性に逆らおうとする傾向を根源的にもっています。
 
 
 「存在するかどうかさえわからないもの、語りえないもの、そんなもののことを、わたしは考えたくない!」哲学という知恵の女王はつねに、そう叫んでいます。哲学と神との戦争の原因は、きわめて根深いものであるといえそうです。