イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超越のほうが根源的である

 
 ミュトス、すなわち神話によって真理を語るというのは、プラトンがとりわけ好んだ手法でした。現代においてこの方法を用いることの正当性についてはいずれまた論じることにして、今は、私たちが取りくんでいる神話の帰結を追ってみることにします。
 
 
 さて、思考はもともと、神につながる性質を持っていました。この点からすると、生きている神に向かうことこそが、考えることの本来の姿だったといえます。
 
 
 けれども、原罪によって神から分離されている今の思考から見ると、超越のモメントというのは、ある種の跳躍をともなうものであるように見えます。
 
 
 「神について考えるというのは、思考を誤って用いることなのではないか。」確かに、このようなものの見方は、現代においては当たり前の姿勢であるかもしれません。
 
 
 しかし、この神話によるならば、むしろ超越のほうこそが、思考にとって根源的なものであるということになる。思考が超越から遠ざけられているのは、思考のうちに原罪が入りこんだのちのことにすぎないということになります。
 
 
 
プラトン ミュトス 神話 神 原罪 プロティノス トマス・アクィナス
 
 
 
 「超越のほうが根源的であり、内在はむしろ派生的である。」こうした観点は極端なもののようですが、過去の哲学史を眺めると、それほど特殊なものでもないかもしれません。
 
 
 たとえば、古代や中世の哲学者たちにとっては、このような感覚はとてもなじみ深いものでした。人間の思考は人間を超えるもののうちにその根源をもつという思想は、プロティノストマス・アクィナスをはじめとして、実にさまざまな人に共通して見られるものです。
 
 
 実は、この事情は、現代に入っても変わりません。言葉の意味はそれぞれ違うとはいえ、ベルグソンやホワイトヘッド、西田幾多郎といった人たちは、晩年に向かうにつれて、いずれも「神」のほうからコギトを基礎づけようと試みました。
 
 
 最晩年のフッサールなども合わせると、20世紀前半の哲学者たちがどれほど神について饒舌だったかは、私たちを少なからず驚かせるものがあります。超越について問うことは、前世紀の哲学の可能性を根底から取りあげなおすことにつながるといえそうです。