ソクラテス、デカルト、ヘーゲルとつづけて書いていたら、終わりの時代について語るという、当初の目的からは外れてしまいました。けれども、久しぶりに哲学がもたらす純粋な喜びについて触れることができたのは、本当に嬉しいことでした。
最近あらためて気づいたのですが、僕は哲学をすることが、本当に好きです。もう、何にもならなくてもいい。ただ、生きているかぎりずっと考えつづけていたい。
4、5年ほど前に、スピノザの体系に打ちこんでいた頃のことを思い出します。そのときの僕は、ひょっとすると自分はこの世でいちばん幸せなのではないかと本気で思っていました。ああいう時期は、もう戻ってくることはないと思いますが、今となってはいい思い出です。
今では、ただ純粋に知ることの喜びだけを追いもとめることのできた幸福な時期があったことは、とてもありがたいことだったと思っています。
それからのち、この世に死と苦しみが存在するということに直面してからは、考えながら生きるということの意味も大きく変わりました。
けれども、あの時期が、哲学という営みに本当の意味で向きあうためのかけがえのない準備期間だったということは、全く変わりません。あとはもう、今の人生に感謝しつつ、やるべきことをやるのみです。
僕には、まだこの世でやるべきことが残っています。それは、神の問いを最後まで追いもとめつづけることです。
このことのうちには、他の何ものにも代えがたい喜びがあります。この仕事を与えてくれたことについては、神に感謝せずにはいられません。
けれども、言うまでもなく、人生のうちには喜びだけが存在しているわけではありません。「生きるとはどういうことか」という問いに答えるためには、苦しみのことを知り、それについても考えなければならない。とりわけ、人間を最後のところで待ちうけている、死なるものの存在について考えなければなりません。
生きることの喜びを味わいつくしたと思ったとき、死の影がはじめて哲学者のもとに射しこみます。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。
こうして、哲学者は死の問いの前に立たされることになります。「ひとは、死んだらどうなるのか。」これから、納得のゆくまで考えてみることにします。