死を前にしての他なるものへの呼びかけは、最後のところで、人間ではないものに救いを求めることになります。これは、呼びかけを行うわたし自身にとってさえも大きな驚きをもたらさずにはおかない瞬間です。
わたしは、気がつくと神に向かって呼びかけはじめている。それまでは知らなかった存在のことを、もうずっと昔から知っていたかのように求めている。
本当は、誰もが無意識のうちに神のことを知っているのかもしれません。もしもそうだとするならば、呼びかけの瞬間には、このことがわたし自身にたいして明らかになるのだと言うことができるように思われます。
神のことはわたしには知られていたはずなのに、わたしはこれまで、かれのことを考えるのを避けていた。これは以前にも論じたように、おそらく、思考自身が抱えている原罪によることなのでしょう。
原罪は、できるかぎり自らの存在を保ちつづけようとします。そして、そのことのうちに益を見いだしていたわたしは、自分のほうでも原罪のほうへと身を委ねていました。
死を前にしたとき、わたしは原罪から必死で身を引き離そうとしはじめます。そして、それとともに、ようやく神のことがわたしの思考にのぼってくることになる。
原罪も神も、それまではいわば無意識のうちに眠りこんでいました。呼びかけは、かつて無意識の領分であった場所にわたしを連れてゆくのだといえるかもしれません。
精神分析が生まれるよりも前の時代を生きていた人びとは、この無意識というカテゴリーのことをほとんど知りませんでした。僕は、このカテゴリーを取りいれることによって、哲学という営みは、神についての思考をこれまでよりも一歩先に進めることができるのではないかと考えています。
たとえば、中世ヨーロッパの哲学者たちは、神について豊かな思索を残したけれども、神にかんするこの無意識の次元については、必然的に見逃さざるをえなかったのではないか。呼びかけを、隠れていた真理があらわになる瞬間として思索することは、哲学に新たな成果をもたらしてくれるのではないかと思います。