「心の最深部は生きている神に直接つながっており、神はそこから私たちに、ずっと呼びかけつづけている。」前回の記事では、デカルトとカント、それにフッサールの議論を取りあげましたが、今日は日本の中世を生きた親鸞の思考を取りあげつつ、このテーゼを補足することにします。
親鸞をはじめとして、阿弥陀仏を信じた人びとは、この世を超えたところに存在する超越者に、たえずつながりつづけようとした人たちでした。このことは、生きている神に依り頼もうとする救いの道にとっては、きわめて重要な先例をなしているといえます。
親鸞は、わたしからの呼びかけにたいして、超越者からの働きかけが先行すると考えていたことがわかります。このことは、「神に呼びかけることは神から呼びかけられることである」という救いの道が指し示す方向性に、そのまま一致するものであるといえます。
親鸞の「報恩の念仏」は、デカルトの「生得観念のとしての神の観念」と同じモメントを指し示しているのではないか。ここにおいては、中世を生きた親鸞のほうが、近世のデカルトよりも、はるかに生々しいかたちで事柄の真相に触れているようにみえます。こと超越という点にかんしては、中世という時代に耳を傾けるべきものが多くあることは確かなようです。
さて、「報恩の念仏」というイデーを私たちなりのしかたで言い直すならば、次のようになるかと思います。
わたしは死を前にして、神に祈った。ところが、わたしが神に祈ることができたのは、神がすでにわたしのことを救ってくれていたからに他ならなかった。
神に祈ることができているということが、すでにわたしの死からの救いを約束している。祈ることとは、永遠の命の贈与にたいする感謝の行為であり、得られるはずのないものをすでにわたしに与えてしまっている絶対的な他者への応答の行為にほかならないからだ。
「アーメン、まことにその通りです。」わたしのいかなる働きかけよりも先に、神はつねにすでにわたしを死から救ってしまっている。親鸞の思考は、救いの道のまさに核心部に触れるものであるといえそうです。