イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神を見つめようとすることのうちで……。

 
 転換をもたらすものは、いつも私たちのもとに唐突に現れます。真なるもの、善なるもの、美なるものをめぐるこの問題についても、神のほうに目を向けることによって、事態は今までとは違って見えてくるのではないか。
 
 
 神とは、どのような存在であるのか。そのことは、この世に生きる哲学者たちにはうっすらと予感することしかできませんが、それでも思考の翼を羽ばたかせて、その天上の住みかを仰ぎみることくらいならできるかもしれません。
 
 
 まず、生きている神がもしも存在するならば、すべての真理は神のもとにあることになるのではないでしょうか。「哲学の心理や科学の真理、そして芸術の真理は、ことごとく神のうちでやすらっている」ということになりそうです。
 
 
 美はどうでしょう。真理が神のもとにあるならば、すべての美もとうぜん、神のもとで花開くということになるはずです。この点についてはここで詳しく論証することはできませんが、美と真理のあいだに存在する切りはなしがたい関係については、プラトンの『饗宴』やカントの『判断力批判』などが参考になるでしょう。
 
 
 最後に、もっとも重要なことですが、善もまた、神のもとで堅く立つということになるでしょう。そして、人間が善なるものを目指しうるという可能性も、ここに見えてくることになる。真・善・美が統一されるという見通しも、神の光のもとに照らすことによってふたたび浮かび上がってくるということになります。
 
 
 
真・善・美 神 プラトン 饗宴 カント 判断力批判
 
 
 
 ここでは、「三つものものの結び目が、生きている神を見つめようとすることのうちで取り戻されるのではないか」という言い方をしたいと思います。いずれ詳しく論じたいところですが、生きている神そのものは、真・善・美そのものではなく、ある意味で、この三つのものを超えたところにいるのではないかと思われるからです。
 
 
 ところで、おそらく現代を生きる私たちにとって最も思惟することが難しいのは、「人間が善なるものを目指しうる」という可能性ではないでしょうか。
 
 
 「絶対的な善さなどない。善は立場によって移りかわる、相対的なものにすぎないからだ。」こうしたものの見方はきわめて根づよいものですし、つねにこのような疑いを自らに課しておくことが人間には必要であることも、言うまでもありません。
 
 
 けれども、人間が生きることのよさを追いもとめるかぎり、必ず絶対的な善という次元が人間のもとに立ち現れてこざるをえないのではないか。僕は、ニヒリズムを乗り越えようとする哲学者は、善なるものについて、もう一度根本のところから向きあう必要があるのではないかと思います。