イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

根源的不確定性について

 
 「あなたの言っていることを聞いていると、まるで、哲学の根本問題のすべては、神という存在を通さなくては解くことができないと言っているように聞こえるのだが。」
 
 
 僕は、まさしく事柄はそのようになっているのではないかと考えています。私たちと時代が近いところでいうと、カントも、どうも同じようなことを考えていたように思われます。神こそが、哲学のアルファでありオメガであるといわざるをえないのではないか。
 
 
 「頭が痛くなってくる。哲学的思考の及ぶ範囲を人間の知の及ぶところに限定してゆこうという動きは、何も今にはじまったことではないのだ。あなたの言っていることは、どう見ても単なるアナクロニズムでしかないのではないか。」
 
 
 ここにおいてはむしろ、存在することを確実に証明できないものごとを哲学の外側に追放しつづけてきたことのしわ寄せが、そろそろ限界に来ているのだと考えたい。この世を超えるものの問題圏からあまりにも離れすぎてしまうと、哲学という営みはいずれ、その生命力をすべて失ってしまいかねません。
 
 
 哲学的思考はどこかで必ず、生きている神にたどりつく。もちろん、このようなものの見方がある種の極論であることは、いうまでもありません。けれども、生きている神を通してものごとを見つめるときには、哲学のさまざまな問題に新たな解決がもたらされる可能性があるということもまた、確かなようです。
 
 
 
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 問題は、「神が存在するかどうかで、すべてのものごとの意味がまったく変わってくるはずなのに、私たちには、理性のみによっては神が存在するかどうかを永遠に確定することができない」ということのうちにあるのではないでしょうか。
 
 
 この事態のことを、根源的不確定性と呼ぶことにしましょう。根源的不確定性は、ひとが哲学の立場にとどまるかぎりは、いつまでも不確定性としてとどまりつづけます。
 
 
 この不確定性があるかぎり、本来は、「神が存在する」と断言することも、「神は存在しない」と断言することも、独断的な判断であるという批判を免れることはできないはずです。
 
 
 そうだとすれば、神の問いは、信仰者のみならず、哲学の営みにたずさわる人すべてにかかわる問題であるということになるのではないでしょうか。
 
 
 根源的不確定性を起点として、哲学的思考のうちに必ず神の次元が入りこんでくることを示し、そこから不確定性にもとづく哲学の方法論を打ち立てることはできないだろうか。これから、この線に沿って少し考えてみることにします。