イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

完全な愛

 
 倫理法則について、絶対性と普遍性についで三つ目に論じておきたいのは、完全性という性質です。
 
 
 後ほど詳しく論じたいと思いますが、「あなたは、悪を行ってはならない」という原則のうちには、愛の次元が働いているように思われます。
 
 
 「あなたは何があっても、絶対に殺してはならない。」こうした要求のうちには、おそらく、人間同士が真の意味で愛しあって生きてゆくことのできる世界をめざすベクトルが存在しています。
 
 
 そうなると、この要求の厳格さ、他者に害を与えることを悪として糾弾する倫理法則の苛烈さのうちには、悪のない世界に向かって人間を突き進ませてゆく何ものかが宿ってもいるということにはならないでしょうか。
 
 
 前回挙げたベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』は、まさにこの問いを追求しています。彼によると、人間の倫理性(道徳性)の根源には、エラン・ダムール、すなわち、愛の躍動ともいうべき推進力が存在しているのではないかとのことです。
 
 
 かりに、この主張には正しい部分があると認めてみることにしましょう。そうすると、私たちには、倫理法則の完全性というアスペクトが目に入ってくることになります。
 
 
 
倫理法則 ベルグソン 道徳と宗教の二源泉 エラン・ダムール
 
 
 
 愛は、完全なかたちではこの世に現れてくることができません。人間は、何かを激しく愛しているその時にこそ、まさしくその愛ゆえにおぞましいことを行ってしまう危険があることは否定できません。
 
 
 だからこそ、人間は自分が愛に突き動かされていると思うその時にこそ、倫理の原則を守ろうと努める必要がある。「あなたは、他者に害を与えてはならない。」理想からいえば、この要求は、それこそ1ミリのズレもなく完全に守らなければなりません。
 
 
 もちろん、まったく傷つけずに愛するということは、人間には不可能です。けれども、倫理なるものは、愛ゆえの暴力をどこまでも見すえつづけながら愛することを、いつでも人間にたいして要求しつづけているようにみえます。
 
 
 倫理法則の完全性というイデーは、まるで、この世のものではない完全な愛の息吹が、人間たちのあいだを吹きぬけてゆくことを願っているかのようです。すでにだいぶ話が飛躍してしまったので、私たちはもう一度、本題の倫理法則そのものに立ち戻ってみることにしましょう。