イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

おお、ロベス・ピエール

 
 「倫理法則は、わたしが自分自身の特権性を放棄して、自分のことをたんなる人間の一人として扱うことを要求する。」このことの哲学的な帰結は、きわめて重要なものをはらんでいるように思われます。
 
 
 このイデーにしたがうなら、倫理なるものは、わたしと他者、そして、世界をめぐる存在論的な構造そのものを変容させるように、私たちに要求していることになる。このことを、もう少し掘りさげてみることにしましょう。
 
 
 倫理を受けいれる前のわたしは、自分のことを世界の主人であると思いこんでいます。こういうものの見方からすると、わたしは自分が倫理法則によって拘束されることに我慢することができません。
 
 
 「わたし、このわたしは、わたし自身以外の何ものによっても縛られはしない!」これが、わたしが自らの権力をたたえて述べる、宣言の言葉です。
 
 
 この特権性がいわば存在論的な支えを持ってしまっているところに、すべての道徳的な悲劇の根源があります。
 
 
 わたしは、わたしのことをたんなる人間の一人に数えることができないということ。その結果としてわたしは、世界の醜さにたいして怒れば怒るほど、自分自身も醜いものになってゆく危険にさらされることになる。
 
 
 わたしは今や、次のように糾弾し、決意します。「この世はあまりにも醜く、汚れている。わたしが、わたしこそが出ていって、この醜く汚れたこの世を正さなければならない。」
 
 
 
倫理法則 ロベス・ピエール 革命 存在論
 
 
 
 これが、人間が革命というものを欲望するにいたる、存在論的な枠組みにほかなりません。「たとえ暴力を用いてでも、わたしが、わたしたちが世界を……。」
 
 
 革命家は、倫理法則を人間たちに守らせるという大義のもとに、みずからその法則を破ります。そのさい、自分自身も人間たちの一員であるという考えは、かれの意識から完全に抜け落ちてしまっています。
 
 
 あるいは、かれは次のように言うかもしれません。「確かに、わたしは殺す。しかし、わたしが悪を行うことによって世界が清くなるなら、わたしは悪に甘んじよう。わたしが降れば降るほど、世界は栄光のうちに上げられる。」
 
 
 おお、ロベス・ピエールよ。革命のとどろきよ。大義のために流されたすべての血を、いったい誰が拭い去ることができるのか。その血はいまも、土の中から殺したものたちに向かって叫びつづけているのではないか。
 
 
 革命家の欲望とは、人間を超えたものの高みからこの世を変えようとする欲望にほかなりません。かれは確かにはるか先の理想の未来を見ていますが、その一方で、目の前に転がっている死体のほうは見えなくなっているのかもしれません。