ラ・マルセイエーズは、革命のために流される血への賛歌です。「殺してでも世界を変える」という革命家の決意は、はたして正当化されうるものなのでしょうか。
私たち人間には完全に正しい裁定を下すことができないのは、言うまでもありません。「フランス革命が世界史を進めた」というのも、まぎれもない事実です。
けれども、革命があの「他者を傷つけてはならない」という倫理の原則に反していることには、疑いがありません。誰よりも強く倫理のための倫理を求めているにもかかわらず、自分自身がその倫理を破ってしまうというところに、革命家の悲劇があります。
したがって、倫理の根源を追いもとめている私たちとしては、この欲望とは今のうちに手を切ってしまうことにしましょう。この欲望は倫理的なものの近くにありますが、決定的なところで、そこから逸れてしまっていると言わざるをえません。
パスカルという哲学者は、「人間は、天使になろうとすればするほど獣に近づいてしまう」と言っています。まるで、その後に起こるすべての革命の悲劇や、ドストエフスキーの小説を先取りしているかのようですが、ここでの議論を総括する言葉として、ここに付け加えておくことにします。
ところで、パスカルは天使という語を用いていますが、私たちはこの語を、超人と言いかえることもできるように思われます。すると、私たちは革命家について、次のように言うこともできそうです。「革命家は、この世で一種の超人としてふるまうことを望んでいる。」
超人は倫理法則に縛られることなく、新しい世界を自らの手で創りだそうとします。善悪の彼岸とは、超人が新たな価値を創造し、自らの力能を自由にふるう場所にほかなりません。
超人という概念を提出したニーチェ自身の思考については、もう少し立ち入った考察が必要なので、またあらためて論じることにしたいと思います。その一方で、革命家が、自らのステータスを人間を超えたところにまで引き上げようとしていることは確かなようです。
人間が、人間を超えたものになろうとすること。革命家の欲望についての考察は、不幸なしかたにおいてではあれ、倫理的なものが超越の次元に触れるものであることを示しています。このことを確認したうえで、私たちは、わたし自身なるものの存在論的なステータスについて、もう一度考えなおしてみることにしましょう。