イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

第三のアプローチ:神による掟

 
 第三のアプローチは、それまでの二つのアプローチとは違い、人間を超えたところから倫理法則の根源に迫ろうとします。すなわち、この論によれば、人間が法則を守らなければならないのは、それが神による掟だからだというのです。
 
 
 「なぜ突然に、そんな話になってしまうのか。」なるほど、唐突ではありますが、少なくとも純粋に論理的な次元で考えるならばありうる話であることは否定できないのも確かです。
 
 
 前にも少し書きましたが、僕は最近、プラトンがなぜ対話篇の終わりで唐突に神話(ミュトス)を持ち出すようなことをしつづけたのか、少しだけわかってきたような気がしています。
 
 
 どうも、プラトンという人は、「真理は徐々に組みあげてゆくようなものではなく、むしろ終着点である真理そのものの方から大胆に語りはじめるしかないのではないか」という哲学観を抱いていたように思われるのです。
 
 
 ひとは普通、超越の次元について語ろうとする場合、内在から超越へ進んでゆこうとします。下から上へ、地から天へというベクトルをもつ運動こそは、あらゆる新プラトン主義者たちが熱をこめて語りつづけたものにほかなりません。
 
 
 ところが、当のプラトン自身は、どうもそれとは異なった語りの仕方にこだわりつづけていたようなのです。
 
 
 
 第三のアプローチ プラトン 対話篇 神話 哲学
 
 
 
 彼はある地点にまでたどり着くと、突然に内在から出発した進行のプロセスを停止させて、いきなり超越の側からの語りを開始します。そして、超越なるものについて哲学の側から語ろうとするならば、どうしてもそのような順序にならざるをえないのではないか。
 
 
 「真理は、終わりからしか語ることができない。」これは、プラトンのみならず、ヘーゲルをはじめとする多くの哲学者たちが抱いていた根本的な直観でした。哲学という営みのうちには、対話へのたゆまぬ熱意があるのと同様に、すべてのものを焼きつくす独白への炎が燃えさかっているということもまた確かなようです。
 
 
 おそらく、哲学者が超越の次元に足を踏み入れるという場合には、このことがはらんでいる逆説がむき出しで現れてくることになるのではないか。哲学の活動そのもののうちに、最後には神話を持ちだすだけの必然性があるとしたら……。
 
 
 今回の探求の場合にも、いつものようにプラトンにならってことを進めることを許してください。これから、神による掟というイデーにしたがいつつ倫理の根源について考えてみることにします。