イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

水平軸から垂直軸へ

 
 第三のアプローチは、倫理の根源には神からの命令があるのではないかと考えます。これから、このイデーにしたがって、少し考えてみることにしましょう。
 
 
 神が、人間たちに向かって掟を与えます。「あなたは、殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。」こうした掟は、それこそ無数にありそうですが、これを要約するならば、「あなたは、他者に害を与えてはならない」ということになりそうです。
 
 
 倫理のための倫理というイデーにおいては、倫理法則そのものの善さが、人間が法則を守ることの根拠となっていました。これにたいして、神による掟というイデーにしたがうなら、人間が倫理法則を守るべきであるのは、それが何よりもまず神の言葉のうちに根拠を持つからだということになります。
 
 
 人間は、神の言葉には従わなければなりません。「盗んではならない」と言われたら、その人はもう、絶対に他の人から盗んではならないことになる。それは、盗むことが盗まれる人に損失を与えてしまうからではなく、他でもない神の言葉に背くことだからです。
 
 
 このように、神による掟というイデーにおいては、人間どうしの間の水平的な関係ではなく、それぞれの人間と神のあいだの垂直的な関係こそが問題になる。倫理法則への違反は、神とその人との関係に危機をもたらすことになります。
 
 
 
第三のアプローチ 倫理法則 神 超越 掟 キルケゴール
 
 
 
 倫理は、超越の次元に触れずにはいないものである。このことは、第二のアプローチにおいてもすでに予感されていたことでした。
 
 
 この第三のアプローチにおいては、倫理と超越の関係が、より力強いかたちで打ち立てられることになります。神から言葉が下されることによって禁止の掟がもたらされるというヴィジョンのうちには、まぎれもない超越のモメントが刻みこまれているからです。
 
 
 「倫理法則それ自体は、倫理を超える審級によって定立される。」このような考え方は、倫理的なものの目的論的棚上げについて語っていたキルケゴールのような人の考え方とも大きく重なり合うところがあります。現代の思考は、倫理的なものの奥にある深淵にしだいに近づいていっているように見えますが、私たちとしてもこのまま、最深奥をめざして進んでいってみることにしましょう。