ここで注意しておきたいことが一つあります。それは、悪魔的なエゴイストは、私たち一人一人のうちに存在しているということです。
「普遍性など、他者など、知ったことか。」確かに、こうしたロジックをそのまま現実に生きている人となると、それほど数は多くありません。
けれども、先に一度論じたように、人間には、自分が悪から完全に離れていると思いこんだ時ほどおぞましいことに身を委ねてしまうという性質を抱えています。だからこそ、悪の問題を自分の問題として引き受けるということは、倫理について考えるうえでとても重要です。
「生きているかぎり、わたしが悪から解き放たれることは決してない。悪は、わたしの存在の奥底で働いている。」西田幾多郎やジャック・ラカンといった人たちは、このことを現代の言葉で考えぬこうとしていたという点で、とても参考になります。
彼らは、悪をわたしの内から追い出すことの不可能性を深く見通していました。この不可能性については、私たちは、どれほど考えても考えすぎるということはないでしょう。
そこで、倫理法則を善いものとして受け入れようとしているわたしのうちに、その法則の根拠そのものを掘り崩そうとする傾向が根を張っているということになります。
わたしは、倫理法則が普遍的であることに尊敬の念を払い、他者が他なるものであるということに、畏敬の念を覚えている。しかし、わたしの内にはそれとは別な法則があって、その法則はあらゆる普遍性を踏みにじり、すべての他性を冒涜している。
倫理の根拠は、わたしが打ち立てる普遍性のうちにはない。普遍性には、いつでも自己性が絡みついているからだ。また、他者の顔の他性のうちにもない。わたしの内で働いている自己性は、他者の他性を食らいつくさずにはおかないからだ。
自己性ではなく、ただ絶対的な他性、わたしが決して害を与ええない、わたしを無限に超え出る存在による掟だけが、わたしの悪から倫理を救いうるのだとしたら。私たちはすでに、倫理的なもののリミットに近づいています。